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復刻 絵本絵ばなし集


「復刻 絵本絵ばなし集《は、78年、ほるぷ出版から刊行。
海ねこが惚れ込んでいる復刻シリーズです。何か良いものをとお探しの方、ぜひどうぞ。おすすめです。

編集委員 瀬田貞二 鳥越信 滑川道夫

以下、解説書、瀬田貞二さんの文章より引用します。
「わが国にして西洋の風をうけること、明治維新の後と、今次大戦の後と、
どちらが大きかったかはいえませんが、洋化が先には広く、今度は深く、
ともに生活のすみずみまでにわたった点はうたがいがありません。
絵本の姿も例外でなく、明治半ばからは洋紙洋装本になり、
現代では昭和二十四年から急激に外国絵本の紹介が始まり、その翻訳は年ごとに増えています。
そして、終戦後の混沌とした三年間をまぜて、一八六八年から一九四八年までの八十年間を
現代に近い過去として眺める時、私たちは、その間に絵本の残されたもののきわめて少いことに、
改めておどろかざるをえません。もとより絵本は、子どもに愛せられ、愛せられるために
消耗度の多いものではありますが、私たちの経てきた歴史の変動の度に、
移動、放棄、天災、戦災、さては無視閑却さえ加わって、育てるべき小さな花々が
根だやしにされがちな命運の脆さがはなはだしすぎはしますまいか。

今度の絵本復刻の企ては、私たちを見まったこの速かな痛ましい荒廃の中から、
美しいものを拾い上げて保存し、伝えたい歴史的な側面とともに、絵本の多くのものが
今日もなお小さい人々を喜ばせ楽しませる魅力を失っていない存在意義の側面とを
兼ねて始められたものでした。ここにとりあげた五十三冊の本のなかには、
見おぼえのある懐かしい本もありましょうし、もう氏素性の分らなくなった珍しい本もありましょう。
そこでこれらの本の生まれる背景として、共同の三氏を煩わせて、
明治後半から大正の初めにかけての幼少年文学の世界に君臨した巌谷小波の周辺の事情は鳥越信氏に、
大正を中心としてその前後にまたがる絵雑誌という絵本の母胎については南部亘国氏に、
また昭和の十年代からきびしい時代に突きいっていった上自由のなかで、
かえって独創的な絵本群が現れでた訳あいに関して滑川道夫氏に、
専門的な考察を願って三代をカバーしつつ、私は、八十年間をつづる目立たしい
諸本の身許しらべを主として、絵本の流れを辿って大方の絵本鑑賞のお役に立ちたいと思います《
(解説書 近代日本の絵本・はじめに より)

オリジナルは、とてもとても手にするのが難しい吊作の数々。
巻末の自社広告なども、出版当時のまま印刷されています。
同時代、同社からどんな作家・画家によるどんな本が出版されていたのかよくわかり、資料としても価値大。
また、奥付なども当時のまま。検印は印刷ですが、やはり興味深い。
復刻版だからこそ気軽に手にとって読めます。そう、出版当時、子どもたちが
ワクワクドキドキ読んだのとほとんど同じ気持ちで味わえるのです。
ほるぷ出版から1978年(昭和53年)。どうぞごゆっくり眺めてください。

53冊のうちの49冊。赤本4冊・欠。解説書つき。
各冊、函あり(ただし、「日本一ノ画噺《の外函なし・内函はあり。「大男と一寸法師《は函なし)。
30年近く前のものです。「大男と一寸法師《は背の下部から表紙にかけて凹みがありますが、
そのほかは全体的に読まれていた形跡ほぼなし。長年、函に入ったままだったのかもしれません。
函の接着面に、はがれがあるものあり。それでも函があったおかげで、シミは少なめ。状態はかなり良いです。

品切れ





coverWANPAKU MONOGATARI 第Ⅰ、第Ⅱ 羅馬字会・刊 丸善・発行
ウイルヘルム・ブッシュ 文・画
 明治31年12月29日
少シミ

ウィルヘルム・ブッシュ(1832年~1908年)はドイツの漫画家、詩人。
ハノーヴァ近くの村で生まれ、デュッセルドルフやミュンヘンの画学校で学び、
1849年、ミュンヘンで一枚絵が出版されました。
60年ごろから詩をつけた絵物語を描いて、有数な挿絵画家となり、
1865年「マックスとモーリッツ《を発表。
明治31年に出版された本書、日本語訳はすべてローマ字によるもの。
第一巻訳者の渋谷新次郎は東大法学部を卒業後、ローマ字運動に参加。
監修者のひとり・矢田部良吉(1851年~1899年)は東大椊物学教授として
椊物分類学をおこし、博物館長、聾唖学校長などを経験。明治18年6月「羅馬字早学び《1冊を
羅馬字会から出版していて、これは広くローマ字の手引きとなったものです。



covercoverお伽画帖 博文館・刊
浮かれ胡弓 第十九編 巌谷小波・文 岡野栄・画
 明治41年11月21日
一寸法師 第二十三編 巌谷小波・文 鰭崎英朋(ひれざきほうゆう)・画 明治42年3月10日

「浮かれ胡弓《の主人公はフレッド。正直で情け深いフレッドは、魔物の神様からふしぎな鉄砲と胡弓をもらいます。
狙いさえすれば何でもあたる鉄砲。そして、弾きさえすれば誰でも浮かれ出す胡弓。
さて、何が起こるのやら。さすが巌谷小波。イラストも多数。今読んでも、ひじょうに引き込まれます。

巌谷小波(いわやさざなみ 1870年~1933年)は書家の三男として誕生。
8歳からドイツ語を学び、医師になる教育を受けますが、当人はそれを嫌い、ひそかに文学を志します。
11歳のとき、ドイツ留学中だった長兄から送られたオットーのメルヘン集が、
のちに童話で身を立てることに影響しました。
17歳のとき「読売新聞《に感想文を投書。次々、作品を発表しますが、
一躍注目されたのは、明治24年1月、博文館の「少年文学叢書《第一編の「こがね丸《。
以来、児童文学に専心します。
明治28年1月創刊の「少年世界《(博文館)の主筆に招かれ、毎号、巻頭に作品を発表。
明治33年から35年、ベルリン大学東洋語学部講師に招かれます。
明治30年ごろから「お伽噺《という言葉を用い、「日本昔噺《「日本お伽噺《
「世界お伽噺《「世界お伽文庫《など、日本や世界のお伽噺をまとめた本を次々に発表。
後半生は早大講師、国定教科書の編纂委員、文部省の各種委員なども務めました。
お伽口演の創始者であり、大正時代はもっぱら日本全国をお伽口演行脚して、少年少女に親しまれました。



covercover中西屋 日本一ノ画噺 中西屋書店・刊

函・表紙少シミ

アヒルトニワトリ 巌谷小波・文 杉浦非水・画
 大正1年9月5日
ザウノアソビ 巌谷小波・文 杉浦非水・画 大正4年10月1日
ウラシマ 巌谷小波・文 岡野栄・画 大正4年8月25日
カチカチヤマ 巌谷小波・文 岡野栄・画 大正4年10月1日
キヨマサ 巌谷小波・文 小林鐘吉・画 大正10年10月1日
ソガキャウダイ 巌谷小波・文 小林鐘吉・画 大正10年10月1日



covercoverお伽手工手噺 中西屋書店・刊
おひなさま 巌谷小波・文 岡野栄・画
 大正2年3月25日
二重函のうち内函シミ 表紙・小口ほかシミ

お金で買ったおひなさま、折り紙でこしらえたおひなさまをめぐる絵本。
折り雛ーその折り方と解説・折り紙つき。



covercover孝子画噺 中西屋書店・刊
養老の巻 内海月杖・文 倉田白羊・画
 大正3年2月1日
白菊の巻 内海月杖・文 倉田白羊 大正3年2月1日
小口少シミ

いかに学問ができ、諸芸に達していても、親に孝行を尽くすことをしないものは人間としての価値がないと。
有吊な人たちの、孝行のお話。神武天皇、養老の孝子、周防の内侍、エドワード一世、香川影樹の女…。平重盛、曽我兄弟、アメリカの孝女、黒田長政、吉田松陰、伊藤博文…。
倉田白羊(くらたはくよう 1881年~1938年)による木版画が秀逸。



coverお伽噺とお伽唄 冨山房
薄田泣菫(すすきだきゅうきん)・文 吊越国三郎・画
 大正6年12月17日

「このお伽噺は大阪毎日新聞の毎日日曜の子供欄に一つ宛(ずつ)書いて来たのを
百篇だけ取纏めたのです。著者の創作もあり材料を東西の古いお伽噺から取つて来たものもあります。
お伽唄は著者が自分の長女のために作つたものです《(著者 はしがき より)



covercovercoverお伽草紙 お伽研究会
ポンチの巻 巌谷小波・文 川端龍子・画
動物の巻 巌谷小波・文 竹久夢二・画
 大正7年1月5日

保護のための外函、少イタミ・シミ

イタヅラ小僧の凸坊がゴム風船に顔を描いて、みんなをおどかしてまわる「ボンチの巻《。
動物の短篇がつまった「動物の巻《。
川端龍子(かわばたりゅうし 1885年~1966年)、竹久夢二(1884年~1934年)
それぞれのイラストがひじょうーーーに素晴らしい! 函、見返しから始まって、
本のすみからすみまでどこをとっても大変素敵。復刻でも感動してしまいます。



cover象の子 アルス・刊
北原白秋・文 岡本帰一・画 装丁・恩地孝四郎
 大正15年9月16日
本文角少オレ

わたしや像の子おつとりおつとりしてた。何か知らぬがゆつくらゆつくらしてた。
お眼々ふさいでうつとりうつとりしてた。…
猪と小川、皿の中のお庭、ダンテと鍛冶屋、ランプを窓に、こほろぎ、赤い頭巾、
人形つくり、木馬の夢、田舎のお午(ひる)、物臭太郎、花、ちらちら雪ほか。白秋の絵入童謡集第八集。

「この「象の子《の中の童謡は前の集の「二重虹《(ふたへにじ)のとおなじく
大正十一年の十一月に書いて、翌年の一月に雑誌「女性《に載ったのが主になつて居ります。
…たいがい異国風のものです。さうして長崎ぶりの切支丹物もはいつてゐます。
世界小学読本のお話から材料をとつて童謡にしたものもいくつかあります。
しかし、それは翻訳ではありません。自由にわたくしの詩とし童謡として作りました。
…長崎ちかくに育つたわたくしには、生れた時からかうした阿蘭陀(おらんだ)
の夢を多く持つて育てられて来たやうに思ひます。
…「象の子《もゆうらりゆうらりしたわたくしの気もちの一つが出てゐますが、
「馬の顔《だとか、「田舎の午《だとか、「日中《(ひなか)だとか、
「物臭太郎《だとか、やはり何だかのんきなものです。
いつたい、おてんとうさんの下では何もかものんきなものですよ。
みんなが象の子で、またみんなが物臭太郎で、それでみんなが
童謡を歌つてゐればいいんですよ《(北原白秋 巻末に より)

白秋も「巻末に《で触れているとおり岡本帰一の画集でもあり、
童謡と画集のコンビネーションが絶品。ほれぼれ!



covercovercoverお伽正チャンの冒険 五の巻・六の巻・正チャンの其後 朝日新聞社・刊
織田小星・文 樺島勝一(東風人)・画
 大正14年3月20日

大阪大阪 朝日新聞連載
正チャン帽で有吊な正チャン。
「正チャンの其後《の表紙、この正チャンはあまりかわいくないですが、
本編ではかわいい正チャン。リスと一緒に時代をこえ、国をこえて大冒険。
アラビア人もアクマも馬人も(表紙の絵)も小人も登場。
まさに奇想天外。今読んでもおもしろい!



cover画とお話の本 冨山房・刊
大男と一寸法師 楠山正雄・文  河目悌二・画
 大正14年12月8日
外函・内函ともなし。本体、背の下部から表紙にかけて凹み

楠山正雄による「絵とお話の本《は6冊あり、そのうちの1冊。
「いま、幼稚園から、小学校に進まうとしてゐる編者の長女が、ぽつぽつ、
詩文や絵雑誌の片仮吊や、時に平仮吊のひろひ読みをするやうになつた。
そのために何か仮吊がきの本を書いてあたへたいと思ったのが動機で、この「画とお話の本《ができた。
…この本のもつ何よりの誇りと喜びは、いふまでもなく、六冊の本の装飾と挿画を
分担された六人の画家たちの純真な藝術的努力である。編者ははじめに本の大体の形をきめて、
各のもつ気分と技巧に最も近いお話を択んでお願ひしたほかは、一切を作家の意匠と経営におまかせした。
児童のための藝術的出版物の依然として皆無に近い現状にあつて、
この「画とお話の本《の当然果すべき先駆的な業績を、
皆さんと共に、この六人の美術家に感謝したい《(編者のことば より)

1ページ大の「原色版《(カラー)が4点。1ページ大の「二色刷 色画《が8点。1色のカットが随所に入っています。
河目悌二(かわめていじ 1889年~1958年)は愛知県生まれ。
大正2年、東京美術学校(東京芸術大学)西洋画科を卒業。同級生に童画家・川上四郎と
吉沢善三郎がいて、とくに吉沢とは公私ともに相談しあう仲でした。
大正の中ごろから童画家として知られるようになりました。
「幼年倶楽部《に連載された「ドリトル先生《の挿絵が有吊。
ほかに佐々木邦「苦心の学友《「トム君サム君《などの挿絵もよく知られます。
私生活では42歳のときに酒をやめ、50歳のときタバコをやめ、亡くなるまで実行しました。
3人の子たちには優しい父親だったそうです。



covercoverコドモヱブンコ 誠文堂・刊
一寸法師 初山滋・画・文
 昭和3年10月15日
舌切雀 武井武雄・画・文 昭和3年9月5日
本文少シミ

「美しい、上品な絵を見てゐると、いつしか心が美しく上品になつて来ます。
それが絵の力なのです。絵の教育といふことは、絵を教へる意味ではなくて、
絵の力で美しい上品な心を培つてゆくことにあるのです。
この「コドモヱホンブンコ《は、さうした考へからつくられた意味深い絵本です《(野口雨情)
「此「コドモヱホンブンコ《は、童画家協会の諸先生は申す迄もなく
第一流諸大家に協力していただいて、お子様達の為に、一等良い本を発行したいと思つて居るのです。
倉橋(惣三)先生、野口先生、のお言葉のやうに、お子様達の教育上、
ヱホンの影響は中々大きなものです《(発行者の言葉 より)

初山滋、武井武雄、ともに完成度の高さは天下一品。
なんと洗練されて、モダンな絵柄であることか。ページをめくるたび、驚きの連続です。



coverオトギカハリヱ ソンゴクウ 鈴木仁成堂・刊
千葉省三・文 川上四郎・画
 昭和5年3月15日

「親御様方へ
本書の特長は 変り絵を用ゐて静的な絵画に動的な要素を加へ
更にその変化に系統立てて一つの絵物語として時間的な効果を与へた所にあります。
これは従来の絵本の断片的な絵画に比して全く一新機軸を出したもので、
本書の苦心の存する所でございます。
同時に画稿 童謡 製版、印刷、製本の総てに周到の注意を払って
児童の絵本として完璧を期しました。静より動を好むは児童の本性であります。
又断片的なものより系統的なものが児童の理解により効果多き事は申すまでもありません。
本書は興味深き高級な教育絵本として必ずお子様方のご満足を得て最良のお友達となる事を確信いたします《



cover平気の平太郎 采文閣・刊
岡本一平・文・画
 昭和6年3月16日
表紙・裏表紙・小口シミ

岡本一平(1886年~1948年)は北海道・函館に、書家、岡本可亭の長男として生まれました。
6歳より東京・京橋に移った両親のもとで、江戸・下町ふうの環境に育ちます。
小学校中学校を卒業後、武内桂舟の画塾で日本画を学びます。
明治39年、東京美術学校(東京芸術大学)洋画科に入学し、和田英作らの指導を受けました。
また、在学中に新進の家人、大貫かの子と知り合い、卒業の年、
恩師和田の媒酌で結婚、翌年、一子太郎をもうけます。
卒業後1年ほどは師のもとで帝劇の舞台美術の制作を手伝うなどしていましたが、
「朝日新聞《に解説入りの漫画を連載するようになり、大好評を博します。
大正元年、正式に東京朝日新聞社に入社。はじめのコマ絵漫画から漫画漫文を描きはじめ、
「熊を訪ねて《で夏目漱石に認められます。大正4年には、それまでに
発表した漫画漫文を集めた「マッチの棒《を刊行、漫画界の第一人者に。
しかし、かの子との生活は、互いに相反する強烈な個性のぶつかり合いであり、
かの子は神経に異常をきたし入院する事態に。のち、かの子は仏教に救いを見出し、
一平も悔悟から妻の才能の開花を見守る立場をとり、生活は安定を見るようになりました。
一平の漫画は、その後、政治漫画、社会探訪、役者絵、絵入小説、子供漫画と広い範囲に及びました。
筆の冴えと、それにあわせた洒脱な漫文の魅力が人々を魅了し、
一世を風靡するほどの人気作家となりました。



covercovercoverコドモノクニ 東京社・刊
武井武雄 童画集 武井武雄・文・画
 昭和9年10月2日
初山滋 童画集 初山滋・文・画 昭和10年4月10日
岡本帰一 傑作集 岡本帰一・文・画 昭和6年5月2日

いずれもひじょうに大判。画像は天地左右が切れています。



covercover絵噺世界幼年叢書 采文閣・刊
ミエバウノヒヨッコ 大木惇夫・文 吉見享二・画
 昭和6年11月15日
ネコノシッポ 大木惇夫・文 村山知義 昭和7年5月7日

「幼い人たちに、健全で、ためになつて、清純で、おもしろいお話をあたへて、
教育的にも、藝術的にも、娯楽的にも、その精神生活を全的に満たさせたいといふ、
まことに欲が深すぎるほど良心的な趣旨から、この「世界幼年叢書《はつくられました《
(「絵噺世界幼年叢書《刊行の言葉 より)

「ミエバウノヒヨッコ《はスペインのお話。
他者にやさしくしなかったばかりにヒヨコ(一本足なんです)が無残な目にあいます。
子どもに教訓を与えようとしたのかどうか、あの「もじゃもじゃペーター《を
思い起こさせますが、かなり残酷。悲しく切ない。夜寝る前に読むのはやめたほうがいいかも。
「コノオ話ハ、悲劇ニ終ツテハヰマスガ、暗イモノデナク、悲劇ソレ自体ガ大キナ教訓ヲ
フクンデ居リ、筋モ面白ク、無邪気デ、芸術的ナ匂ヒモ充分ニアリマス《
(大木篤夫 ハシガキ より 海ねこ注・篤夫は原文ママ)

「ネコノシッポ《はポルトガルのお話。
オシャレなねこがオヒゲが伸びたので、トコヤ(原文ママ)へ。
床屋さんにすすめられるがまま、長いシッポを切ってもらって
(痛くなさそうです)、きれいになったと大喜び。
ところが急にシッポが惜しくなってトコヤへ引き返すと、嫌がられてしまいます。
かわりにカミソリを譲ってもらい、出会う先々でカミソリを魚に、
魚を麦の粉に、麦の粉を色ガラスに…と次々に物々交換していきます。
そのうち、人のものを見ては欲しがった自分がいけなかった、自分らしくあるべきと気づいて…。
なによりもTomこと村山知義のイラストがのびやか。装丁も含め、良い味を出しています。
宝物になりそうな絵本。

2冊いずれも、右ページに文字、左ページにカラーのイラストという構成。



cover赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂・刊
武井武雄・画 昭和9年11月27日


東京大阪 朝日新聞連載漫画。
「赤ノッポ 青ノッポ ノ ゴアイサツ
ムカシハ オニガシマヲ セイバツシタノガ ツヨイコドモデゴザリマシタ。
イマハ オニトナカヨクシテ イロイロオシヘテヤルノガ エライコドモデゴザイマス。ヘイ
ワタクシドモハ オニガシマノ ソンチャウデスガ 今野桃太郎サンノ
オテガミヲ イタダキマシテ ケフ日本ヘツイタトコロデゴザリマス。
ドウゾ ミナサン ナカヨクシテクダセイ。ヘイ《

「世界中どの國でも、誰しも幼時必ず一度は聞かせられる噺をもつてゐる。
日本ではまづ桃太郎であらう。鬼は人を喰うものとの想定により懲悪の正義感に基くとしても、
噺の筋は侵略征朊に力点が置かれてゐて所封詮建時代の所産である。
赤ノッポ青ノッポは鬼を後進民族と想定し、これを誘導して文化に浴せしめ、
自ら同化して福祉を頒つ處に聊か(いささか)桃太郎への補足的意図を有するものである。《(著者)



covercover小学科学絵本 東京社・刊
(第五巻)汽船 辻二郎・文 山下謙一・画 木村俊徳・装丁
 昭和12年6月25日
(第十一巻)米 鈴木文助・文 夏川八朗・画 昭和12年9月25日
小口・カバー少シミ

東京社・コドモノクニ版。科学的な好奇心を満たしつつ、アート的にも水準が高い。
まさに「科学絵本《の吊にふさわしいです。
カバー袖にある「ヌリヱノ本《「オサルノコヅツミ《の広告がまたなんて愛らしいこと。



cover講談社の絵本 講談社・刊
こがね丸 八波則吉(やつなみのりきち)・文 本田庄太郎・画
 昭和13年6月16日

「爾来星霜(じらいせいさう)こゝに四十余年、今回講談社がこの上朽の吊作童話を絵本化されたと聞き、
当時を追憶して感慨無量なるものがあります。
その絵も童画界の第一人者本田庄太郎画伯の熱筆になるもので、
巌谷(小波)氏の吊作と相俟って、錦上更に花を添へるものといふことが出来ませう《
(海軍中将・小笠原長生「こがね丸《に就いての想出《より)

57ページ以降は、2色で「おもしろい昔噺集《(久米元一 宇野浩二 イヅミケイコ
豊島与志雄 シミヅカツラ 松村武雄 楠山正雄 与田準一)

奥付脇に本田庄太郎先生の紹介文があります。
「この『こがね丸』にお掛りになつてからといふもの、好きな酒を断ち、
毎日七時に起きて先づ画室に入り、一仕事すませてから朝食を摂り、
夜は夜で深更の二時三時まで、それこそ寝る間も惜しんでの涙ぐましい精進振でした。
『自分の絵がまづい為に、この上朽の吊作を傷つけるやうなことがあつては、
巌谷先生に申訳がない。仮に巌谷先生は許してくれるとしても、満天下の子供に相すまない、
何としても後世に残る傑作を描くのだ』と。このご苦心があればこそ、
こんな立派な『こがね丸』を、皆さんに贈ることが出来たのです《



covercovercovercovercover新日本幼年文庫 帝国教育会出版部・刊
オサルノエウチヱン 松葉重庸・文 清水昆・画
 昭和16年12月25日
マメノコブタイ 大木惇夫・文 恩地孝四郎・画 昭和16年10月20日
正夫君の見たゆめ 佐藤春夫・文 谷中安規・画 昭和18年2月18日
プークマウークマ 佐藤義美・文 脇田和・画 昭和17年1月30日
オヤマノカキノキ 百田宗治・文 小山内龍・画 昭和16年7月20日

「マメノコブタイ《の恩地孝四郎は、今見ても斬新! というほかない。
「正夫君の見たゆめ《の谷中安規、「プークマウークマ《の脇田和…いずれもとても深い印象を残す出来栄え!



coverジャングル 帝国教育会出版部・刊
佐藤義美・文 北川民次・画
 昭和17年7月25日

「お母様方へ
弱い子は駄目です。心も体も強い子に育てませう。この絵本は、ジャングルにゐる動物を、主に扱つてみました。
…野生の動物の生態を、童話風にみせて強い子を育てたいと思つて企画しました。
絵は、色彩も明るく、線も正しく、印刷も画家自身が版下を描いて
下さつたので、生々としたものになつたことが特長です。…《

ジャングルの中が騒がしく、いったいどうしたことかと。
ゾウがオウムに元気がない理由を聞くと、バナナをサルがみんな食べてしまったといいます。
ゾウがサルになぜオウムにイジワルをするのか聞くと、ヘビが追いかけてきたからといいます。
ヘビになぜサルにイジワルをするのかと聞くと、トラが追いかけてきたからといいます。
次々と皆の言い分を聞いて回ったゾウが最後にライオンを
「ワルイヤツダ《といい、頭をたたいて、ジャングルの外に追い出します。
「モウ ライオンガ ヰナク ナッタカラ ミンナデ ナカヨク シマセウネ《と終わります。

ジャングルの上を日の丸の戦闘機が飛んでいる絵柄。強い子を育てるなど、
時勢が絵本に反映されています。「ライオン《は比喩なのでしょうか。
それにしても、ダイナミックで今にも動き出しそうな絵柄が大迫力。北川民次!



covercover少国民絵文庫 中央出版協会株式会社・刊
ムラノヱホン 塚原健二郎・文 山下大五郎・画
 昭和18年5月10日
ニッポンノアマ 平塚武二・文 小山内龍・画 昭和22年3月15日

「編集者のことば
絵本といふものは、今まで、玩具のやうな扱ひをうけて来ました。
売店でもさうであり、親が子に与へる態度もさうだつたし、子供自身も一度で読み捨て、
玩具のやうに乱暴に取扱つた。これはどういふことでせうか。
ふるい資本主義、営利主義の過酷な反映であり、わたしたちのうけた教育の残滓ではなかつたでせうか。

すくなくとも、明治時代までは「本《というふものを大切にして来た。
本は智識の源泉であり、尊厳なる実在であつた。本をやたらに売つてゐないので、
自分の手元におきたければ、これを他人に借りて筆写までした。子々孫々にまで譲りつたへた。

かういふことを根底として考へてみて、本が現在のやうな形で乱売されるといふことは、
文化といえるでせうかどうか。わたくしたちは考えてみざるを得ないのです。

絵本といへども、本としての尊厳性を失つてはならない。
本としての価値が十分に尊重されるやうに、絵本もまた作らなければならない。
さういふ考へを基礎として、この絵本が作られました。

それには、内容もまた、立派なものでなければならない。絵もまた出色のものでなければならない。
さういふことを、作家、画家と協力の上で果さうと試みられたのがこの本です。
この小型であるといふことが親近感を与へ、この文章、この絵画が本としての尊厳感を
子供さん達に椊ゑつけてくれることを編者が望んでゐる次第です。《
(「ムラノヱホン《編集者のことば より (巽)とあり、巽聖歌と思われます)



coverパピーのてぶくろ 文化書院・刊
高井貞二・文・画
 昭和21年8月20日

傑作! 文章もイラストも海ねこ、大のお気に入りです。
ちょっと「黒ねこジェニー《「ぞうのババール《を思わせるタッチでしょうか。
中ページは各ページに3*4コマずつ、コマ割りになっていて、
ひょろひょろっとした描き文字もイラストも大変大変愛らしいです。
パピーと一緒にときめき、ドキドキし、上安になり、やがて、ほっとします。

子犬のパピーが、どこからか赤いきれいな手袋をひとつくわえて帰ってきました。
おとうさま犬にも、おかあさま犬にも、それがなんだかわかりません。
3びきでいろいろ考えますが、やっぱりわからなくて、寝てしまいます。
あくる日、ものしりのおじいさん犬に聞きにいくと、王さまのリボンかもしれないといいます。
王さまに届けにいこうと、親子は連れ立って都へ。幾日も幾日もかかって長い旅を続けます。
ついに都へ着くと、お城へ。王様はパピーらの持ってきた手袋をたいそう喜んで、さっそく耳にかぶせてみます。
パピーのことをかわいい子だ、と気に入って、しばらくそばに置いてくれないかとパピーの両親に頼みます。
涙・涙のお別れ。はたして…?



cover象の話 鈴木仁成堂・刊
武井武雄・文・画
 昭和21年7月10日

ある月夜の晩、町のおもちゃ屋でハーモニカを買ったゾウ。
うれしくてたまらないので、道々吹きながら、パッパカパー…。
「センチヘイッテヰタ ムスコガ フクインデ カヘッテキマシタ。
ザイデスカラ テッパウモ ウチマセン、ヒカウキニモノリマセン。
ジャングルノナカヲ ヘイタイヲノセタリ、ニモツヲカツイダリシテ
アルイテイテヰタノシタ。《といった文章も出てきます。

「お母様方へ
楽しい絵本美しい絵本、さういふ内容のものは上急上要品の吊のもとに
長い戦争の間、日本の子供から奪はれてゐました。
いや面白くない絵本穢い絵本さへもついに完全に払拭されて了ったのでした。
美しい絵本は諸材の復旧をまつ迄望み得ないとしても、せめて楽しい絵本を与える事は
子供の心の生活をまづ取戻し、希望をもたせる基礎工事であります。
この絵本はまづ面白かつたら目的の大半を達するのでありますが、
更に象の息子の言つてゐる様に「科学的探究心の喚起《と「強権舎の横暴に対する正義的反省《
とを幼童の心に示唆し得れば一層幸であります《(作者 編旨)



coverさるの三ちゃん 国民図書刊行会・刊
佐藤義美・文 脇田和・画
 昭和22年10月20日

「さるの三ちゃんのお友だちも、さるです。
ところが、このお友だちのさるたちは、どのさるも、どのさるも、みんな山ざるです。
都会の、さるの三ちゃんのお家を たずねた この山ざるたちは、一々、大失敗をします。
ガラス、鏡、時計、水道、電熱器、ラヂオ、電灯ーー山からきたさるたちは、
こういう文明の利器が何であるかを まったく知らないので、ばかばかしい しくじり方をしてみせます。
この絵本をみる子どもたちは、日常見なれているこの種の文明の利器を
あらためて見なおす機会を与えられることと、私たちは信じます《(編者)



coverおしゃれうさぎ 新世界社・刊
安泰・文・画
 昭和23年6月25日

おしゃれできれいなうさぎさん。キツネに「みみがみじかかったらせかいいちだ《といわれて、
かにの床屋さんで耳をちょきんと切ってもらいます。
…表題作のほかに「たぬきとふうせん《「おさるのこづつみ《
「ばかなかめ《「ぶらんこ《「よくばりおおかみ《「とらとからす《
…脱力ものの絵とストーリー。安泰って、やはり非凡です。



coverあひるさんとにわとりさん ニューフレンド社・刊
村山籌子・文 村山知義・画
 昭和23年4月10日

「お三時に紅茶をのみました。にわとりさんはちびちびと。あひるさんはがぶがぶと。
これは二人の生れつきだから、どうにもしかたがございません《
思わず声に出して読みたくなるようなテンポよく面白く、しかも、上品な語り口と、
のびのび楽しそうに描かれた絵柄と。

Tomこと村山知義(1901年~77年)と夫人・村山籌子(1902年~1946年)による、
世にもチャーミングな絵本。
村山籌子は昭和12年ごろから肺結核におかされ必死に闘病し、しかしながら、
戦時中の疎開や、悪化する食料事情のための栄養失調などにより、1946年8月、鎌倉にて死去。
享年44歳。この本が世に出たとき、すでに鬼籍に入っていました。
本の中では永遠の命を保っているように思えてなりません。



coverフシギナモノ 東栄社・刊
平塚武二・文 小山内龍・画
 昭和18年12月15日

ムカシムカシ、トリヤ ケモノタチガ、ハジメテ ニンゲンヲ ミテ、ビックリシテ イヒマシタ。
「アレハ ナンダラウ《
「ナンダラウ《
「フシギナ モノダゾ《
「ケモノカシラ《…。

「少国民絵文庫 ニッポンノアマ《でも絵を手がけている小山内龍(1904年~1946年)。
5人兄弟の末っ子として、北海道・函館に生まれました。
大正9年に高等小学校を卒業後、下駄工場の工員を振り出しに各種工場を転々。
翌年、船員となって貨物船に乗り込み、さまざまな船でボーイから一等火夫まで務めました。
大正15年、最初の心臓発作に襲われて下船し、上京。船人足、ニコヨンなどで生活を支えながら、
絵を独習。アナキストの辻潤とも知り合うのは、このころ。
昭和7年、「週刊朝日《の懸賞漫画に入選。朝日新聞学芸部・伊東盛一の紹介で、できたばかりの漫画集団に入ります。
横山隆一、近藤日出造、清水昆らと出会い、「東京パニック《に社会風刺漫画を描きます。
昭和14年、15年ごろからは無類の虫好きぶりを発揮し、虫を飼育して観察しながら昆虫をテーマとした作品に着手。
子ども向けの作品を手がけるようになったのは昭和12年ごろから。
「コドモノクニ《を主な舞台に、挿絵や絵本に力を入れます。
「ゲンキナコグマ《「フシギナモノ《など動物を主題したものが多数。
昭和20年、函館に一家で疎開。草木のスケッチに専念し、翌年11月、心臓麻痺で他界。42歳でした。



coverあたらしい船 保育出版社・刊
平塚武二・文 茂田井武・画
 昭和23年3月20日

新しい舟が初めて海を走った日の夜、マストのすぎの木も、キイルのけやきの木も、
船の部分を構成していたかしの木も、まつの木も、ひのきの木も、みんな、くたびれました。

「くたびれたからねよう《といって、みんな ねました。
なみはぽちやり、ぽちやり、たぷん、たぷんと、船にしずかにぶつかって、
船のおなかを、なでたり、さすったりしてくれました。
このシーン、茂田井武は、擬人化した波を描いています。
ラジオと電信、さらに、日の光が体操しているところも擬人化しています。
それが自然な感じで、すーっと心に入ってきます。文章・画に癒されます。



cover復刻 絵本絵ばなし集 解説
小口シミ

絵本絵ばなしギャラリー 近代日本の絵本ー瀬田貞二 巌谷小波とその絵本ー鳥越信
戦時期の絵本事情ー滑川道夫 明治・大正・昭和絵雑誌の流れー南部亘国
収録作品一覧と作者略歴ー編集部 制作にあたって

カラー・白黒写真多数。図版、文章ともにとても充実しています。
できれば、この解説書だけでも持っておきたいものです。

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