古本 海ねこ トップページへ戻る

子どもの頃、私は、飼っていた文鳥とセキセイインコの餌と水の交換係りでした。
「いやいや」やっていたせいか、鳥たちとの愛情あふれる交流の記憶がありません。
覚えているのは、きれいな羽毛と、かごが窮屈そうだったこと。
スズメ、ハト、ツバメ、カラス・・・・・・は、身近におりました。
が、町育ちの子どもが、自由に飛び回る鳥たちに、最初に出会ったのは、子どもの本の中だったかもしれません。
お話の中で主役であったり、わき役であったり、鳥たちは、たくさんのお話に住んでいました。
暑い!暑い!暑かった夏の終わりから、クリスマスの頃まで、子どもの本を住処にする鳥たちを探してみたいと思います。
タイトル写真は、テムズ川、マーロー付近。


文:カーネーション・リリー・リリー・ローズ
写真:カ・リ・リ・ロ & Co.


神戸出身、関西在住。
子どもの本と絵本とチョコレートとバラををこよなく愛する、
未公認無認可イギリスびいきの会の一員。




続きは、こちら カ・リ・リ・ロのブログ『みんなみすべくきたすべく』

cover 第15回 ガラスのクジャク
「ガラスのクジャク 【「ムギと王さま」に収録】」
(エリナー・ファージョン作 石井桃子・訳 岩波書店)


この連載最後は、数あるクリスマスのお話の中で、特に大事に想うおはなしです。鳥といっても、生きて飛ぶ鳥ではありません。

子どもの頃から、クリスマスツリーを飾るのが好きでした。
整理ダンスの上に置けるような小さなツリーだったとしても、ただの脱脂綿を雪に見立てたとしても、飾りのサンタクロースのおじいさんの眼が少々ずれていたとしても、嬉しかったのです。てっぺんには、金色の厚紙の星が飾られていました。それで、クリスマスツリーのてっぺんには、星を飾るのだとばかり思い込んでいました。
ところが、てっぺんの飾りは、妖精人形であったり、ガラスのクジャクであったり! 星だけでないのだと知ったのは、子どもの本からでした。
また、飾りつけるものにしても、金、銀、赤、緑のガラスのような玉飾りやベルや、銀紙を貼りつけた長靴までは、よく覚えていますが、ガラスのクジャクを飾るなんて、まったく想像すらしませんでした。

前回紹介したアトリーの「農場にくらして」に、クリスマスツリーのてっぺんに飾られたガラスのクジャクに心奪われたことが書かれています。そして、エリナー・ファージョンのお話「ガラスのクジャク」に描かれたガラスのクジャクは、ツリーのてっぺんに飾られているとは書かれてはいませんが、「クリスマスを祝う心が考えだせるかぎりの、きれいなきれいなガラスのおもちゃ・・・・・・」の一つとしてツリーで光を放っています。
「ガラスのクジャク」の貧しくも健気に生きる小さな主人公、アナ・マライアが目覚めて夢を見ることができるのは、「世にも不思議なクジャクの絹のようなガラスをなでながら」です。ところが、弟のウィリヤムがベッドからそのガラスのクジャクを「カチャリ」と落としてしまいます。夢が壊れた瞬間!
その瞬間、読者は、ささやかな幸せを失ってしまったアナ・マライアと同化し、心の奥が締め付けられるような気がします。ファージョンは、割れてしまうという「繊細」で「はかない」イメージを、生命のないガラス製のクジャクに託し、お話を奥深いものにしました。そして、石井桃子さんの名訳があったからこそ、日本人の私にも、想像すらしたことのなかったガラスのクジャクのイメージが広がったのだと思うのです。

「メリン横町のどの子の部屋にも、何か美しいもの、鳥か、花か、色のついたガラスの星かが、その子の夢を飾っていました。そういうものは、どのくらいぶじにもったでしょう・・・一日か、一週間か、それとも、二・三週間か一年・・・いえ、ことによると、何年ももったものもあるかもしれません。」

***ファージョンやアトリーのガラスのクジャクを、「名作に描かれたクリスマス」(若林ひとみ・著 岩波書店)では、ドイツのラウシャ製と紹介しています。その地では、ガラスの原料となるケイ酸がとれたため、ガラス製品の産地となり、ツリー用の軽いガラス飾りもたくさん作られ輸出されたとあります。そうだったのか・・・。

写真は、お話のイメージとは全く違うガラスのクジャク2羽。落としたら、「カチャリ」ではなく、「ガチャン」というでしょうが、試しません。

おしまいの写真は、スイス、ルチェルン。

cover

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cover 第14回 コマドリ
「グレー・ラビットのクリスマス」」(アリソン・アトリー 河野純三・訳 評論社) 「農場にくらして」(上條由美子・松野正子・訳 岩波少年文庫)


「グレー・ラビット」「チム・ラビット」「サム・ピッグ」等の生みの親、アリソン・アトリー。
伝記「物語の紡ぎ手−アリソン・アトリーの生涯」(デニス・ジャッド著 中野節子・訳 JULA出版)を読むと、子どものお話の紡ぎ手は、いい人であるにちがいないという思いこみが、覆されます。
が、しかし、彼女の大人としての品性や振る舞いがいかにあれ、やはり、彼女の幼い時の記憶から紡ぎだされたお話は、幼い子のための文学として一級品が多いと思います。

彼女の抜群の記憶力と感性は、「農場にくらして」を読むと、よくわかります。子どもの頃の珠玉の経験が彼女の作品のいたるところで、命をもらいお話として生き返っていくのです。

【・・・・・・カケスが一羽、きらきら輝く青いダイヤモンドのように森から飛び出してきて、パンをもらいに草地にやってきました。コマドリは家の中まで入ってきて、テーブルの下をぴょんぴょん跳び回りました。その間、スーザンはじっと動かないようにしていて、お父さんが床の上にパンくずをまいてやりました。】(「農場に暮らして」〈12月の章〉)

カケスがダイヤモンドのように! コマドリが家に入ってきてぴょんぴょん!
”なんて素敵でしょう!”と思っていたら、「グレー・ラビット」のシリーズの中でコマドリはゆうびん屋さんになって、登場しています。

【・・・・・・ゆうびん屋のこまどりが、クリスマス・カードと手紙を一通持って、戸口にまいおりました。ヘアーが小さなとがった葉っぱにかかれたはしりがきをみているあいだ、こまどりはひとやすみして、朝ごはんにしました。】(「グレー・ラビットのクリスマス」)

コマドリは、イギリスでよく見かける鳥です。好奇心が旺盛なのでしょうか。人のそばに寄ってきたり、後をついてきたりするような感じすらして、親しみを感じます。丸っこい目や姿も愛くるしく、その親しみやすいキャラクターは、お話のわき役としてよく登場します。「ピーター・ラビットのおはなし」にも出てきていましたね。
また、胸元が赤いので、雪の風景や、常緑のもみの木に、アクセントとして、しばしば描かれます。特に、クリスマスの時期、その絵が描かれた切手やカードなど、しばしば見かけます。キリストが架けられた十字架にコマドリがやってきて癒し、胸が赤いのはイエスの血だとされています。

【・・・・・・マーガレットは踏み台に乗って、「我が家に神の御恵みを」「神は愛なり」、「この家に平和の来たらんことを」や「幸せなクリスマスと楽しい新年を」などのクリスマスのための聖句を壁に鋲でとめました。その文字は黒い背景に赤や青で書かれていて、胸の赤いコマドリ、ヒイラギ、ヤドリギ、明るい色で描かれた花ばなが聖句の周囲を飾りました。・・・・・・】(「農場に暮らして」〈12月の章〉)

写真は、コマドリ、果物、花々が描かれた壁画です。

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cover 第13回 オウム
「ドリトル先生 アフリカゆき」(ロフティング・作 井伏鱒二・訳 岩波書店)


ドリトル先生シリーズは、およそ50年前の子どもーつまり私ですがーの心にしっかりと根付いたシリーズでした。
「長靴下のピッピ」、「エルマーのぼうけん」とともに、「ドリトル先生」シリーズは、自分で読んだ読書体験の一番古い記憶に位置しています。
わくわくしながらページを繰った、あの息遣いを、今でも思い出すことができます。
どれも、今と同じ装丁で、しっかりしたハードブックでした。
子どもを小馬鹿にしたような装丁ではありません。大事に読むのですよ、この中には、楽しみが詰まっていますからねと、そのきれいな本たちは静かに私に示してくれました。
高価でしたから、図書室で読むことが多かったのですが、ドリトル先生は、2−3冊、誕生日にやっと買ってもらった記憶があります。
当時、アーサー・ランサム全集とドリトル先生シリーズ12巻全部そろっている図書室は、「重し」が利いているように思い、神々しささえ感じていました。
小学校の図書室の、窓より低いところにあった本棚や日焼けしたカーテン、蔵書カードの引き出しは、今でも思い出すことができます。

・・・・・・おっとっと、バードウォッチングの話でした。
意外にお感じかもしれませんが、ドリトル先生ははじめから獣医だったわけではなかったのですよね。
ドリトル先生の家には、オウムのポリネシアをはじめとして、アヒルのダブダブ、フクロのトートー、犬のジップ、子ブタのガブガブ、のほかにもたくさんの動物が住み、さらに増え続けたので、診察をしてもらいに来る患者が減っていきます。
たった一人、どんな動物も嫌がらない患者は、ネコ肉屋だけになりますが、この男が病気になるのは年に一度、クリスマスの時だけなのです。
このネコ肉屋の助言もあって、オウムのポリネシアが、ドリトル先生に「獣医」になることを勧めます。
それで、まず、ポリネシアから鳥語を習い、犬、馬・・・・・・と、動物語のわかる獣医としての地位を確立し、数々のドリトル先生物語が生まれるというわけです。

つまり、オウムが言葉を喋るという特徴から、このお話は出発しているのです。
実際には「オウム返し」という言葉が示すように、人とオウムは会話ができる訳ではありません。
といっても、コミュニケーションをとろうとしているようにも見えるのですよね。
万が一にも、このポリネシアのような特例のオウムもいるかもしれず、だから動物と会話できる獣医がいるかもしれず・・・・・と、思わせるところが「ドリトル先生」の楽しさです。

オウムが言葉を真似ることができるのは、よく知られたことですが、インコも少し真似ることができるようです。
インコはきれいな色合いなので、かごで飼う、愛玩用だと思っていたら、オーストラリアじゃ、きれいなインコが普通に飛んでいる! ペットが野生化したのではなく、もとより野生!

写真は、オーストラリア・パースで野生のインコがカフェの看板に。

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cover 第12回 スズメ
「こすずめのぼうけん」(ルース・エインズワース・文 石井桃子・訳 堀内誠一・絵 福音館書店)


以前住んでいた家の庭に、二度、スズメの子が落ちていたことがありました。
初めてのときは、おたおたしている間に、どこかに行ってしまいました。
二度目のときは、どこかひっかかっていたのか、バタバタしていましたので、庭越しにお隣さんに声をかけ、助けていただきました。
お隣さんは、めじろを飼っていて、小鳥の扱い方に慣れていました。
「人の匂いがついたら、あかんのだけど・・・・・・」と言いながら、ひっかかっていた部分をはずすと、そのままにして帰っていかれました。
そして、時間をおいて見てみると、やはり、一度目と同じように、スズメはいなくなっていました。
お隣のおうちの雨樋と瓦の隙間にスズメがしばしば出入りしており、鳴き声もよく聞こえていたので、多分、その辺りに、巣があって、うちの庭に落下したのでしょう。
お隣のおうちは、犬を庭で飼っていらしたので、猫も入れないのを、スズメたちはたぶん知っていたのです。
出入りの激しいスズメたちを目にすると、「こすずめのぼうけん」の話をいつも思い出していました。
迷子になったこすずめが他の鳥のお母さんに冷たくあしらわれながらも、健気に自分の巣を探し、スズメも迎えに来るという話です。
とすると、うちの庭に落ちてきた「こすずめ」も、お母さんスズメが迎えにきて、巣に戻ったのでしょうか。

ところで、ヨーロッパで見かけたスズメは、日本でよく見るスズメよりもう少し大きいように思いますし、色もちょっと違うような気がしました。
なにより、日本のスズメは決して人に近寄らないのに、ヨーロッパのスズメは、人が少々近づいても、さほどぱっとは飛び散りません。
写真のように、スイスのスズメは、ベンチの上のリュックサックのそばまでやってきました。
よく見ると、今回の写真に写っているスズメには頬に黒い丸い部分がありませんし、色も淡い茶色です。
調べてみると、ヨーロッパはイエスズメ(house sparrow)、日本はスズメ(tree sparrow)といって、種類が違うようでした。

ヨーロッパのスズメが人になつき、スズメの知恵も相当なものだと納得できたのは、「小雀物語」(クレア・キップス 大久保康雄・訳 小学館ライブラリー)というノンフィクションに出会ったときでした。
戦時下のロンドンで迷子だった小雀クラレンスを飼い、育て、暮らした婦人。
スズメとの心の交流を描いた物語ですが、事実に基づいたノンフィクションなのですから、まさに「小説より奇なり」・・・です。
数ある動物交流物語の中でも、特に心に残る一冊になること間違いなし。
詩人のウォルター・デ・ラ・メアが、この文の刊行を薦めたというのも、うなずけます。ぜひ、ご一読を。


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cover 第11回 ニワトリ
「こねこのぴっち」(ハンス・フィッシャー作・絵 石井桃子・訳 岩波書店)


大学生だった頃、書店に入るなり、真正面を向いた「こねこのぴっち」が、「買って・・・・・・」と、訴えてきました。
思わず「かわいいーー」と、購入しました。
”岩波の子どもの本”シリーズの小さな版で、当時320円でした。
ユーモアあふれる、いたずら描きのような軽妙な描き方は、心も軽くしてくれるような気がしました。

そののち、表紙のぴっちがさらに愛おしく見える大判の「こねこのぴっち」が出版されました。
大判には、”岩波の子どもの本”ではカットされている絵の部分があったので、ショックでした。
特に、ぴっち全快お祝いの会で、みんなが庭に集まるシーンの両端がカットされているのです。
やぎのおばさんもお祝いに駆けつけ、つのに、すずを飾って洒落こんできているというのに・・・・・・。
しかも、ぴっちに貸してくれた「よそいきの」すずとご自分のすずですから、お話にまったく関係のない装飾ではないのです。
ウサギの楽隊も半分しか出場していないし、左端で、ウサギがジョウロを吹いて演奏に加わっている部分もカットされています。
お祝いの席で、フル出場、しかも音楽つきで賑やかにということが意味のあることだと思えます。
小さい判型にすべて収めるのが難しかったのだとしても、ここは、なんとか原書どおりのものにしてほしかったです。

で、ここでやっと、本題のバードウォッチングです。
ぴっちは、他のこねこと同じ遊びがしたいのでなく、ひよこと遊びたかったのですが、おんどりとうさんの歩き方の立派なことに感心し、「ぼくも りっぱな おんどりになりたいなあ!」と、おんどりの後ろを、真似て歩くのです。
ぴっちが憧れるおんどりは、確かに堂々としていて頼もしく、恰好よく描かれています。
そして、フィッシャーの他の作品、「たんじょうび」「ブレーメンのおんがくたい」(以上2冊、福音館書店)「いたずらもの」「るんぷんぷん」(以上2冊、小さな絵本美術館)にも、同じようにカッコいいニワトリが描かれています。

これらの生き生きと描かれているニワトリを見ていると、思い出す画家がいます。
日本・江戸期の伊藤若冲です。
時代も国も異なる、二人の画家は、それぞれが魅力的なニワトリを描きました。
自由に揺れるニワトリの尾、大きく自慢げな胸と姿勢・・・・・・、ニワトリの本質が、一気に潔く描かれています。
それで、もし、フィッシャーと若冲が描く鶏の違いを挙げるなら、フィッシャーの鶏は、温かみが読者に伝わり、若冲の鶏はそのエネルギィが鑑賞者に伝わってくるという点でしょうか。多分、これは、家族のために、数冊の絵本を残したスイスの画家と、家業より絵を極めた京都の旦那との違いだと思います。

写真は、スイス ザンクトガレンの看板。お菓子屋さんです。


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cover 第10回 ペンギン
「ペンギンくん、せかいをまわる」(M&H.A.レイ作 山下明生・訳 岩波書店)


この作品には、ドラマチックな出版の背景があります。
第二次世界大戦時、ユダヤ系ドイツ人の作者、ハンス・アウグスト・レイと妻のマーガレットがドイツ侵攻目前のパリから、命からがら着の身着のまま出ようとしていました。
そのとき持って出た荷物は、冬物のコート、そして「ひとまねこざる」(岩波書店)ほかの原稿や原画でした。

ところが、戦後すぐに日の目を見て、人気者になった「ひとまねこざるのジョージ」に比べ、このペンギンくんが世に出るのは、作者夫婦が亡くなってから、そのコレクション展示の中から見つけられた、その後でした。
「ひとまねこざる」と同じ荷物の中に、この「ペンギンくん せかいをまわる」もあったのです。H.A.レイがパリで、この「ペンギンくん せかいをまわる」の想を得てから63年経て、初めて出版されたのでした。

一筋縄では、世に出なかったこの作品ながら、内容は極めて単純で愉快なものです。
ペンギンランド全国放送のアイス局のお話番組の責任者のペンギンくんが、溶けてなくなってしまったお話のたねを探しに、休暇を取って旅にでるストーリーです。
「いつだって、たびびとは、いっぱいおはなしをもってかえるもの」と言いながら、国境をらくらくと越えていきます。
ペンギンくんが、番組“おはなしすいすい”のたねを見つけるのは簡単なことでした。ボートが氷山にぶつかって沈んでも、大砲の中で昼寝中にブッ飛ばされても、“お話すいすい”のたねになる、と前向きです。うわさに聞いていた”人間”を見て喜び、ダチョウの卵をサッカーボールのようにけっ飛ばし、ラクダに乗って船酔いし、と好奇心のかたまりです。とにかく、前向きに、目の前のことを楽しみ、自由に世界を行き来するペンギンくんです。

最後のページでペンギンくんの友達は、雪で大きな銅像をつくり、「わがペンギンランドのえいゆう ペンギンくん」と刻みつけました。丸い大きな雪の玉の上に魚を携えて立つカッコいいペンギンくん。ペンギンくんの立つ大きな雪の玉は、チャップリンの映画「独裁者」で、独裁者ヒンケルが、大きなボールのように弄ぶ地球(儀)と重なります。
この作品が生まれた頃は、自らを英雄と位置付けようとした人間が出現し、自由に国を行き来するどころか、同国人でも民族が違うと同じ人間とみなさず、排除、そして虐殺・・・・・・と、歴史に大きな汚点を残した時代でした。
こんな時代に、作者が生き延び、自由に描いたという背景を知ると、ますます、このペンギンくんに、将来も頑張ってほしい気持ちになります。
もっとも、この絵本を大いに楽しむ子どもたちは、そんな複雑な背景など関係ありません。
「いつだって、子どもは いっぱいおはなしを楽しむもの」

写真は、北海道旭山動物園のペンギンくんです。


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cover 第9回 カモメ
「沖釣り漁師のバート・ダウじいさん」 (ロバート・マックロスキー作 わたなべしげお・訳 ほるぷ出版)


「子どもの本でバードウォッチング」の短期連載でも3度目、しかも続けて登場となるロバ―ト・マックロスキーの絵本です。

前回の「すばらしいとき」でも、カモメは出番がありました。
「海鳥だけの しゃれっけで とうぜんの うねりに おどろかされたことを、くすくす ぎゃあぎゃあ わらいだす」
「かもめたちが とんできて ひとさわぎする」
「きょうは くすともぎゃあとも いわないぞ。海鳥でさえも、じょうだんなどいうひまなしか。」
前回の控えめなハチドリとは、正反対の性格を持つ鳥として出てきます。
だからといって、嵐のさなかのハチドリを心配している作者が、ハチドリだけに肩入れしているのかというと、そうではなく、賑やかなカモメには、大きな親しみを持っているようです。
この「沖釣り漁師のバート・ダウじいさん」で、よくわかります。
というのは、バート・ダウじいさんには、仲良しのおしゃべりカモメが、いつもそばに居るからです。

ぎいっこ しゅぼっ! ぎいっこ しゅぼっ! チャカチャカバン! チャカチャカバン!
とバート・ダウじいさんは、おしゃべりカモメをしたがえて、舟を繰り沖にでます。
おしゃべりカモメは、バート・ダウじいさんがクジラに釣り上げられたときや、格闘しているときは、大笑いしていますが、いつもじいさんのそばにいます。しかも、じいさんのじょうだんがわかるのです。
読者は、ついつい、クジラの口の中やクジラの大群のアヴァンギャルドな絵にばかり目がいって、あるいは、じいさんの格闘するシーンが楽しくて、おしゃべりカモメを見落としがちです。でも、今度、この絵本を開いたら、ぜひ一度、おしゃべりカモメだけを見てください。
実に、いろんな表情で、じいさんのそばに居て、じいさんを励ましているかがわかりますから。前向きなじいさんの友達も、やはり前向きといったところでしょうか。

子どもにとって、この絵本の魅力。それは、赤白しまもようの何にでもくっつく、クジラのしっぽにさえくっつく「ばんそうこう」を、バート・ダウじいさんが常備していることです。クジラのしっぽに「ばんそうこう」を貼る、というありそうであり得ない話の展開が、子どもたちの心をとらえます。しかも、「ばんそうこう」を貼ってもらいに仲間のクジラたちが大挙して押し寄せ、「ばんそうこう」をねだり、バート・ダウじいさんもそれに応える! 小さい子たちは、「ばんそうこう」が好きです。小さい子は、小さな傷に「ばんそうこう」を貼ってもらうのが好きなのです。 誰かに、「おじょうちゃん、そこどうしたの?」と、注目してもらえるのが嬉しいのでしょうか。新しい服を褒められるのと同じ感覚なのかもしれません。
ともあれ、バート・ダウじいさんの常備していた赤白しまもようのではありませんが、我が家にも数々のキャラクターの描かれた「ばんそうこう」が数多くあった時期がありました。


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cover 第8回 ハチドリ
「すばらしいとき」(ロバート・マックロスキー作 わたなべしげお・訳 福音館書店)


以前、南の島に行った時のこと。
娘たちと朝の散歩をしていたら、水色のような薄緑のようなとても小さい鳥が、ブーンと羽を必死に動かしてホバリングし、花の蜜を吸っておりました。
おお、これがあの絵本『すばらしいとき』に登場するハチドリかぁ。
「みつばちたちが ぶんぶん とび、はちどりたちが 羽をならす。」「どこにいたんだろ、ほら、はちどりたちは あらしの さなか」と言わしめた
・・・・・・と、我々はそう思っていました。

が、今回、この文章を書くにあたって調べてみましたら、我々の行った南太平洋には生息していないらしい・・・。南北アメリカ大陸のみに生息する・・・と。
”えっ、じゃ、あれはハチドリではなく、うちの花にもよくやってくるスズメ蛾の一種”なの???
花から花へと飛び回る様子や大きさ、蜜を吸う様子は、ハチドリにそっくりでよく間違われるらしいのです。
(*日本ではなじみの薄いハチドリという小さな鳥ですが、絶えず羽を動かしているので、その羽音「ブンブン」「ブーン」が蜂のよう。そこで「ハチドリ」といい、英語では「ハミングバード」と呼ばれています。)
確か写真を撮ったはずだと、家じゅう探したものの見つかりません。もしかしたら、カメラを持たずに出た散歩だったのかもしれません。
長い間、そう、我々は、15年くらいもの間、「絵本『すばらしいとき』のハチドリを見た!」と、信じてきたのでした。そして、こう書いている私自身も、あれは、風に乗って、島にやって来ていた例外のハチドリだと思っています、ハイ。

「すばらしいとき」は素晴らしい絵本です。声に出して読むと30分以上かかるのですが、我が家では、何度も一緒に楽しみました。
先の「はちどり・・・・・・」の件だけでなく、嵐のさなかのページに出てくる「みよや 燦たる この栄光!」という文章を意味がわからずとも唱えると、この絵本のことだと、今も子どもたちと共通理解できます。
絵の魅力とともに、リズムのある文章の流れは、声に出して読めば、より一層、心に響きます。そうです。響いてくるという感じです。そして、奥深くしみ込んでくる・・・・・・。特に、台風シーズンになると、この絵本の息遣いを思い出すことがあります。台風前、台風通過中、台風後。雲を見て風を感じ、ぞくぞく、ぞわぞわ・・・・・・、まさに五感に訴えてくる絵本なのです。

この「すばらしいとき」の原題は、“Time of Wonder” (1957年)といい、アメリカ合衆国の東、メイン州の海岸が舞台です。
同じメイン州で書かれたレイチェル・カーソンの名著「センス・オブ・ワンダー“The Sense of Wonder”」(1956年 佑学社・新潮社)と、イメージの源泉が明らかに同じです。レイチェル・カーソンは「知ることは感じることの半分も重要ではない」といい、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を生涯消えることなく、世界中の子どもたちに授けてほしいと願います。大人になって、つい忘れがちな本当に大事なこと・・・・・・。このことを、レイチェル・カーソンは平易な言葉で書き遺し、ロバート・マックロスキーは美しい絵と詩的な言葉で描き遺しました。

写真は、秋のメイン州に友人たちとドライブに出かけた息子が撮ったものです。ほかにも何枚か届いたのですが、写真の多くは、ただの流木であったり、光の当たる砂浜であったり。絵本「すばらしいとき」を知らない同行者たちにとって、息子は奇異な写真家として映ったはずです。けれど、「すばらしいとき」が大切な一冊である我が家には、何よりもの写真だったのです。


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第7回 鳥かご
「ヨリンデとヨリンデル」(グリムの昔話 フェリクス・ホフマン編・画 大塚勇三・訳 福音館書店)


グリムの昔話には、ナイチンゲール、ガチョウ、カラス、ヒバリ、ニワトリ、ツグミ・・・・・・、数々の鳥たちがでてきます。
昔話の成り立ちを考えると、か弱く見える鳥たちが、自由に飛び、動き回る姿に、昔の人たちは自分たちを置き替え、願いを託すのでしょう。
特に、グリムの昔話は、北国のお話です。南の国に比べ、クマやオオカミ、キツネなど動物の種類は限られています。だから、さまざまな鳥の登場が増えるのも不思議ではありません。

さて、グリムの昔話では短い部類に入る「ヨリンデとヨリンデル」は、今回の連載で「鳥」を書こうと思ったとき、すぐ頭に浮かんでいました。
他にも数々ある中、何が、この話は「鳥」の話だ! と強く思わせたのでしょう?
部屋を埋め尽くすような「七千の鳥かごに入った鳥たち」「そこにはナイチンゲールが何百羽もいるのです。これでは、いとしいヨリンデを、どうやって見つけたらいいのでしょう?」という表現にあるとおり、飛んでいない鳥、群れを成すわけではない大量の鳥、かごの鳥。魔女はヨリンデはじめ娘たちを、歌のうまいナイチンゲールに変えたのでした。私が思い出したのは、具体的な鳥の種類というより、漠然と、鳥かごに入れられた鳥たちだったのです。たくさんの「鳥かごに入った鳥」が、このお話の「鳥」のイメージとして、焼きついていました。

羽ばたく、飛び回る、渡っていく・・・・・・。「鳥」は自由の象徴です。
そんな「鳥」を「鳥かご」に入れるのは、「鳥」の本質を無視しています。
確かに、きれいな声の小鳥が、毎朝そばで囀ってくれたら、楽しいでしょうし、きれいな羽の小鳥が、手や肩に乗ったりしたら、嬉しいに違いありません。
が、「鳥」を「鳥かご」に入れるとどうなるのか?
サマセット・モーム唯一の童話である「九月姫とナイチンゲール」(邦題は「九月姫とウグイス」光吉夏弥・訳 岩波の子どもの本、「九月姫」モーム短篇選 行方昭夫・訳 岩波文庫)では、九月姫が愛するナイチンゲールを「鳥かご」に入れると、ナイチンゲールは、歌えなくなってしまいます。自由を奪われると、鳥は歌えなくなる。「鳥かご」は、自由を阻む象徴なのです。

何年か前、コッツウォルズで、庭のきれいなお屋敷ホテルに泊まった時、時差ぼけのまま、まだ暗い早朝に目覚めました。 窓を開け放つと、木々の向こうから小鳥の囀りが聞こえました。それは友を伴い、あるいは、違う種類の鳥たちを呼び起こし、大合唱になって行きました。そして、空が白々と明けたのでした。
もっと昔、阿蘇山のふもとに泊った時は、すでに少し明るくなっていましたが、やはり小鳥の囀りが聞こえ、今日一日を祝してくれるようなコーラスが聞こえてきたのを思い出します。
そうです。鳥が戸外で伸び伸びと歌うのを聞くのは人の喜びと言えるでしょうし、自由に羽ばたいているのを見るのは、人の心を開放してくれるような気がします。

今回の動画の画像は薄暗い木々と空ですが、小鳥たちの声とニワトリの声が入っています。夜明け頃、コッツウォルズのホテルの窓を開けて、収録した鳥たちの囀りです。クリックして聞いてみてください。鳥が飛ぶのも見えますよ。

この画像をクリック

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cover 第6回 ナイチンゲール(小夜啼鳥 サヨナキドリ)
 「ナイチンゲール」(「アンデルセン童話集」アンデルセン・作 初山滋・挿絵 大畑末吉・訳 岩波書店)


アンデルセンには「白鳥」(第2回)以外にも「みにくいあひるの子」「コウノトリ」「ナイチンゲール」など、鳥の話があります。
特に、「ナイチンゲール」の話は、てっきり有名なフローレンス・ナイチンゲールという女性の話かと思ったくらい、見たことも聞いたこともない鳥が主人公だったので、子どもの頃の私には、より興味深いものでした。
それに、私のような町育ちの子どもにとって、きれいな声で鳴く鳥といえば鶯の「ホーホケキョ」がせいぜい。いつか、ナイチンゲールという鳥のいい声を聞いてみたいものだと思っていました。

次に、このナイチンゲールのことを思い出したのが、中学生の時に見た映画「ロミオとジュリエット」です。
オリビア・ハッシーという可憐な女優さんがジュリエットでした。
ロミオが朝、ジュリエットの家から帰ろうとすると、鳥の鳴き声がします。聞こえたのは夜に鳴くナイチンゲールの声で、「朝鳴くヒバリの声ではないから」と、ジュリエットが恋人をひきとめようとする有名な箇所です。ナイチンゲールかぁ! そして、映画を見た中学生は、シェイクスピアを初めて読んだのでした。

で、次に思い出したのは、ずっとずっと後になって、趣味で英語のお話を訳していた時でした。
小鳥の鳴き方をどう訳していいのか迷い、「鳴き声によるヨーロッパ・バード・ウォッチング―身近な野鳥99種」というCDを手に入れたら、入っているじゃないですか、ナイチンゲール(サヨナキドリ)が声高らかに歌っている!
なんという美しいソプラノ! そりゃあ、中国の皇帝も血迷うし、シェイクスピアも小道具に使いたくなるわ・・・・・・。

ナイチンゲールは、クロウタドリ、ヨーロッパコマドリとともに”ヨーロッパ三鳴鳥”と呼ばれ、その美しい鳴き声が、人々を魅了してきたようです。
ただ、姿はというと、日本三鳴鳥(ウグイス・コマドリ・オオルリ)のウグイスと同じく、地味な鳥で、目立たない。それが、かえって、美しい鳴き声の主に対する想像をかき立て、古くはギリシャ神話、グリム童話、そして、先のシェイクスピアをはじめ、サマセット・モーム、オスカー・ワイルドなどなど、数々の文学作品に登場するのではないでしょうか。

何年か前、イギリス・コッツウォルズで目覚めた早朝、声高らかに歌ってくれた鳥がいました。
すわ、ナイチンゲールか! ずいぶん遠くの木の上だったので、デジタルカメラのズームいっぱいでようやく見えるくらいでした。顔をあげ、誇らしげに「一人」で歌うその姿に、しばし、見とれておりました。美声の主は、残念ながらナイチンゲールではありませんでしたが、”ヨーロッパ三鳴鳥”のクロウタドリでした。ヨーロッパコマドリが鳴くのも見たことがあるので、いつかナイチンゲールの鳴き声も「なま」で聞いてみたいものです。

写真はコッツウォルズ・チッピングカムデンにて。シャッターチャンスを逃してしまい、ちょっとピントが甘いかもしれませんが、その朝のクロウタドリです。ソプラノという感じではなく、張りのあるいい声です。クロウタドリは、第5回のキバシガラスと少し似ていますが、くちばしがオレンジ色で、足は黒い。イギリスでは、よく見かけます。ヨーロッパでは、春の訪れとイメージが重なる鳥のようです。


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cover 第5回 カラス
「かってなカラス おおてがら」
(ジョーン・エイキン作 猪熊葉子・訳 岩波書店)


カラスの黒いくちばしの頑丈そうで硬そうなこと! あんなくちばしでつつかれたら大変!
娘が今よりずっと怖いもの知らずの時期、黒いストールをかけ、肩で風を切って歩いていたら、カラスに急降下され威嚇されたとか・・・・・・。こわっ!

カラスは、なかなか賢く、人間生活をよくご存じのようです。
ここ、平地の住宅地では、ごみ回収の日の朝、あちこちの低層マンションの屋上に何羽か止まっています。そして、カラスの視線の向こうにはごみステーションがあるという状況です。
多分、カラスたちは、ごみの日を知っているのです。その日は、いつもより多く繰りだしてきていますから。
ごみのあさり方も小動物の食べ方も、おいしい部分を良く知っているようで、無駄な包み紙や、もしゃもしゃする羽など、くわえては、ぽいっと、投げて捨てているのを見ると、感心してしまいます。

こんなカラスは、お話の中でも、負のイメージで扱われることが多いですが、ときには、前向きな? キャラクターで扱われるカラスもいます。
たとえば、「かってなカラスおおてがら」に登場するワタリガラスのモーチマー。
モーチマーは、電話が鳴ると、先に出て、しゃがれ声で「ぜったいだめ!(nevermore)」(*)といい、階段を食べるのが好きなカラスです。このユニークな習性が大手柄に結びつくのです。
初めて読んだときは、この「階段を食べるのが好き」という点がどうもわからない。大人になってこの本に出会った私は、「ま、お話なんだから、こういうのもありか」などと都合良く考えました。家の中の木の階段ならまだしも、地下鉄の階段! ん・・・・・?

ところが、何度かイギリスに行くうちに、わかってきたぞ! 地下鉄のエスカレーターが、木でできている!
今は、防災上の観点から、ロンドンにも木のエスカレーターはないのかもしれませんが、20年くらい前はまだあった。10年くらい前もあったような・・・・・。オリンピックが近い現在では、もうないのでしょうか。
雨でも滑らないし、化学素材の履物や長いスカートをはさみこんだり、指の鋭利な切断も起きなさそうな気がします。
木のすり減った感じは、温かみがあるし、ギィギィ言う感じとスピード感のなさが、懐かしくていい感じでした。
そう、カラスのモーチマーは木の階段が好きなのでした。

*ちなみに、訳者あとがきによると、「実は、このカラスには、文学的に立派なご先祖がいるのです。それは、19世紀アメリカの詩人で、小説家としても有名なエドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」に登場するカラスです。鋭い言語感覚の持つ主だったポーは、ある時「nevermore」という言葉を繰り返すことで効果を生じる詩を書きたいと思いました。そして、死んだ恋人を思って悲しみに閉ざされている男のところへ一羽のカラスがおとずれ、この言葉を繰り返す、という趣向の詩が生まれたのです。モーチマーの口にする「ぜったいだめ」という言葉は、ポーの言葉を借用したものです。」(猪熊葉子氏あとがきより)

写真は、スイスのキバシガラスです。日本のカラスにレンズを向けるなど恐れ多いので・・・・。この黄色いくちばしは、日本でよく見るカラスに比べずいぶん小さく、足も黄色い(オレンジ色)です。

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cover 第4回 オオライチョウのひな
「フルリーナと山の鳥」
(ゼリーナ・ヘンツ文 アロイス・カリジェ絵 大塚勇三・訳 岩波書店)


山の近くに住んでいるとき、ホトトギスが鳴く声がよく聞こえました。
「テッペンカケタカ」と早朝、ときには、夜でも鳴いておりました。
メジロも、夫婦でよくやってきて、そのかわいい声を聞かせてくれました。
シジュウカラもキビタキもコガラも、ときにはコゲラの類(キツツキ)も。
ウグイスだけは、庭で見かけたとしても、間近で歌ってくれたことはなかったですが。

イギリスの家庭の庭先には、鳥の餌台や水飲み場を用意しているところも多く、小鳥がたくさん寄ってきているのを見ました。
帰国して、うちでも真似をして、餌台を設置してみました。
「いろんな小鳥たちが仲良くついばむ」という情景を思い描いたのですが、案の定というべきか、ヒヨドリの定位置になりました。
見晴らしもよかったものですから、彼は、いつも偉そうに、見張っていました。
また、餌台ではなく、ミカンを切って枝にさしておくと、メジロが夫婦で、やってきてつつくのですが、
そんなときも、たいてい、あのヒヨドリがやってきて「きーきー」と、蹴散らしてしまうのです。

絵本「フルリーナと山の鳥」でも、フルリーナが山で助けたオオライチョウのひなたちが餌をついばむとき、ニワトリに睨まれて威嚇されるさまが描かれています。
この絵のページには、ニワトリとオオライチョウのひな以外にも、たくさんの種類の鳥が描かれています。コマドリ、シギ、ヒワ、シジュウカラ、カササギ、カラス、キツツキ、カッコウ・・・。
これは私が絵を見ながら、別に鳥類図鑑で調べたわけではありません。文章でもきちんと描かれているので、そうとわかるのです。
例えば、「けたけたわらってはねまわるカササギ、文句を言っているカラス、一番高いくいで歌を歌い、教えさとしているカッコウ」。
だから、絵を見る者も、「ああこれがカッコウ、ああこれがカササギ」と、わかります。

絵本の絵は、お話を補い、お話のイメージを膨らませるものです。
文章とかけ離れたことが描かれていたところで、絵を見る者、特に、お話を読んでもらっている子どもには、そのつながりがよくわかりません。
自分で文字を読まないで、絵本を読んでもらっている子どもは、耳でカッコウの様子を聞き、カッコウが描かれていることを自分の目で納得し、そして楽しむのです。

写真は、「フルリーナと山の鳥」の画家カリジェの住んだ村トゥルンにて撮影。
お店の壁に描かれた、ちょっとお姉さんの”フルリーナ”。矢印の先がそのアップです。足元に、アロイス・カリジェのサインが見えますか?

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cover 第3回 かも
「かもさん おとおり」
(ロバート・マックロスキー作 渡辺茂男・訳 福音館書店)


近くの川べりを散歩していたら、かもさんがこがもを連れて泳いでいるのをみかけました。
こがもが葦の間をふらふら寄り道しそうになりながら浮かんでいる横を、親鳥は横目で見ながら、泳いでおりました。
じっと見るでなし、見ないでなし、干渉しすぎるでなし、かといって、放置するでなし、人の親もかもの親もなかなか子育ては大変です。
子育て上手なかもさんを描いた絵本があります。マックロスキーの絵本「かもさん おとおり」がそれ。
「かもさん おとおり」には、子どもと存分に楽しませてもらい、かもさんは、とても身近な鳥となりました。

マックロスキーは実際に、かもさんを飼い、その姿を詳細に描きました。
いろんな角度、いろんな大きさで描かれたかもさんは、どれもみな美しく描かれ、画家の愛情が感じられます。
また、読者自身がかもになって空からボストンの街を俯瞰したり、遠目で黄昏の公園の池を眺めたりと、いろんな方向からボストンの街を楽しむこともできます。
加えて、こがもたちの名づけ方がとても楽しい。
こがもたちの名前「ジャックにカックにラックにマックにナックにウワックにパックにクワック」を、声に出して一気に読むと、こがもたちが騒いで鳴いているように聞こえます。
また、きょうだい達が、「ぐあっ!」と鳴く中、一人「げぇー!」と鳴く末っ子「クワック」(多分)は、いつも、追いつくのに必死で、その大股歩きがかわいいと、我が家の人気者でした。
そして、最後のページの地図を、かもさん気分でなぞるのが、みんな大好きでした。

ところで、昨年、ボストンに出かけた長男は、ボストン公園の写真を送ってくれました。
今回掲載の写真「かもさん親子行列の像」をはじめとして。
ほかにも何枚か写真を送ってくれたのですが、生きたかもが写っている写真も含まれていました。そのうちの1枚、なんと、絵本のとあるページに構図がそっくりだったのです。
これには驚きました。絵本を持って渡米したわけでなく、長い間見たこともなかったはずの絵本「かもさん おとおり」の絵そのものでした。
彼の記憶の中に残っていた”かもさん一家”・・・・・・。

毎日、バタバタと過ごした子育ての時期、これでいいのかと自問自答しながらの日々でしたが、こうやって、子どもの記憶の中に、絵本のシーンが残っているのは、思いがけない「おまけ」の喜びです。

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cover 第2回 白鳥
「白鳥」
(アンデルセン作 マーシャ・ブラウン画 松岡享子・訳 福音館書店)


白鳥の姿に替えられた11人の王子たちを救うために、妹のエリザがイラクサをつかんで作業をする場面は、読んでいる方まで、ちくちく、ひりひりと痛くなります。
イラクサという植物は、葉にも茎にもとげがあるようで、皮膚の腫れる成分を含んでいるのですが、昔から、この草を繊維にしたもので衣服を作っていたようです。

初めて「白鳥」を読んだ子どもの頃は、白鳥を見る度に、”この子は、本当は王子? これは仮の姿?”などと思い描いたものでした。
今も、首をうなだれ、上品に水の上を浮かぶ白鳥を見ると、呪いのかかった王子ではないかと思ってしまいます。
また、11枚の肌着が間に合うのか、最後、エリザが火あぶりにされてしまわないかなど、はらはらしながら読んだことを思い出します。

自分に子どもができ、末っ子にマーシャ・ブラウン絵の「白鳥」を読んでやった時のこと、末っ子は、話の結末が不満でした。
「何故、一番年下のにいさんだけ、肌着が間に合わずに片方の羽が残ったままなの?」
エリザのそばにいて、その涙でイラクサの傷口を癒したり、最後にエリザを見つけてくれたり、と、一番年下のにいさんの存在は大きく、
その優しさへの報いが、「呪いを解く肌着が間に合わない、羽が残ったまま」では、確かに理不尽です。
そこで、うちの末っ子は、「お母さん、最後の白いページに、この後の話を私が書いてもいいか?」と言いました。
で、彼女は、「でも、でも、またいらくさであんだのでなおりました。」と文を続け、両手が元どおりになった一番年下の王子とエリザを並べて描いたのでした。7歳になる少し前のことです。

やはり、この結末は、子どもにとって納得のいかないものなのです。
一番年下のにいさんに非はなく、他の王子たちと差をつけられてしまう理由などないのですから。
また、多くの子どもは信仰に縁遠く、天使の羽のように残ったとはとらえず、単純に、片方が羽のままでは不自由だろうと考えるのでしょう。
そんなこんなで、親は、うちの末っ子の書いたハッピーエンドを、素直に楽しんだのでした。

写真は、テムズ川マーロー付近の白鳥。

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cover 第1回 ペリカン
「ターちゃんとペリカン」
(ドン・フリーマン作 西園寺 祥子・訳 ほるぷ出版)


子どもの頃の夏休みの思い出ってなんでしょう?
私は、神戸・須磨育ちなのですが、海で、さほど泳いだこともないまま、
小学校に上がると、体育の教師をしていた父親に付いていって、中学校のプールで泳いでいました。
中学校に上がると、友人たちと炎天下歩いて、市民プールへ。日焼けしまくって、まっ黒に。
ついたあだ名が「アフリカ」。
英語の先生がつけたのですが、ま、今にして思えば、頬のこのしみもこのしみも、ああ、このしみも、あのとき肌の奥深くしみ込んだものかいな?

さて、今度は自分の子どもたちの思い出作りとなりました。
少し大きくなった子どもたちと年の一度のお楽しみは、きれいな海に出かけることでした。
きれいな海を求めると、この辺りからは少々遠いものの、紺碧の海と眩しい光、さわやかな風を感じ、
大人はぼんやり仕事と家事を忘れ、子どもは子どもで伸び伸びと過ごしました。

夏休み、海・・・・・・の絵本といえば、「ターちゃんとペリカン」です。
この絵本で特に印象的なシーンは、ペリカンが「ぐわぁー」と口を大きく開けるところです。
子どもたちは、「こわー!」とか、いいながらも大喜び。
ターちゃんのなくした長靴がペリカンの口の中に入っています。
何でも収納できそうなペリカンの口になくしたものがはいっているなんて!
しかも、そのお返しの魚がもう片方の長靴に入っていたなんて!
ありそうなことを描き、子どもたちが納得するお話です。

今回掲載のペリカンの写真はオーストラリア・パースのものですが、
写真のあと、「ぐわぁー」と大きく口を開け威嚇されたようで、本当に怖い思いをしたと娘は言っています。
そういえば、絵本のペリカンは優しい瞳に描かれていますが、
写真のペリカンは、眼飛ばしの鋭い瞳でちょっと怖い。
が、もっと怖いのは、メキシコ湾の原油流出で油まみれになってしまったペリカンの映像。
各地で原油流出の事故の映像が流れる度に、油の犠牲になる鳥たち。

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