オズボーン・コレクションの"オズボーン"とは、エドガー・オズボーン。
郵便配達の家に生まれた彼は、小学校を出ると働きながら自力で学びました。
教科書は、自分の家にあった物語の本、そして、公共図書館の本でした。
第一次世界大戦に4年間、従軍ののち、終戦後、独学で図書館員の資格を取得。
1923年、イギリス、ダービーシャーの州立図書館長に就任。
州立図書館とはいっても、助手がふたり、蔵書1万2千冊という小規模のもの。
しかし、1954年に引退するまでに、イギリス連邦でも有数の図書館に育て上げました。

彼は、私たちと同じように児童書を愛していました。
大人になってから帰郷した折、かつて愛読していた本たちは物置にくくられていました。
それらの本にどれほど歓びを与えられ、育ててもらったかを思い出して自宅に持ち帰ります。
その話を聞いたメーブル夫人も実家を探して、少女時代の愛読書を見つけ出します。
その1冊は、とても珍しい本の初版でした。
夫妻は古い児童書を蒐集するようになります。
自分たちが子どものころ楽しんでいた1920年代はじめの本、
さらにさかのぼって16世紀の本まで。
オズボーン氏の職業的な影響もあって、貴重な本をきちんと受け継いでいきたいという熱意も支えでした。

夫妻がはじめてトロントの公共図書館の児童部「少年少女の家」を訪ねたのは1934年。
アメリカ図書館協会の大会にイギリス代表として出席した帰りでした。
夫妻はそこで出会ったリリアン・スミス女史に感銘を受けました。
ニューヨーク公共図書館に勤務していたスミスさんは、
26歳のときトロント公共図書館の招きで母国カナダに戻り、
ひとりで児童部を始めた人。
最初そこは中央図書館の片隅に過ぎませんでしたが、
彼女の創意に満ちた活動によって、10年後、中央図書館のすぐ横にあったヴィクトリア朝風の邸宅を改造。
事務所も児童室もあるこの家を、スミスさんは「少年少女の家」と名づけました。
オズボーン氏夫妻がスミスさんに会ったのも、ここ。
スミスさんがコツコツ集めた100冊ほどの児童書の古典を入れた本棚を見たのも、ここでした。
オズボーン夫妻が目にしたのは、かつてヨーロッパやアメリカのどの児童図書館で見たよりも、すぐれた児童書の数々、
さらに、すばらしい子どもへの働きかけ、優秀な児童館員の養成ぶりでした。
メーブル夫人は自分たちの蔵書を残すなら「少年少女の家」だと、オズボーン氏に漏らします。

1946年、メーブル夫人が亡くなったあとオズボーン氏は、トロント公共図書館の館長に書簡を送りました。
そして、蒐集した2千冊の本と900点の原画を寄贈することを申し出ました。
寄贈の条件は、以下のとおりでした。
*コレクションを収容するのに適当な場所を図書館の理事会がきちんと設けること
*そのコレクションにさらに本を加えていくこと
*ひとつのコレクションとして維持し、スタッフをつけ、一般の人々に公開し、
適当な期間のうちに蔵書目録を出版すること。
これらの条件を満たしていくことは容易ではなかったため、図書館側は慎重に検討を重ねます。
しかし、ついに、図書館側は受けることに決定し、証書が交わされます。

1949年11月、オズボーン夫妻の蔵書は、トロント公共図書館に正式に寄贈されました。
図書館側は目録作成のため、館長以下スタッフ全員がさまざまな方法を試みました。
カードの作成、不明だった著者名や出版年月を割り出しつきつめる作業、1冊ごとに短い解説をつける作業…。
オズボーン・コレクション児童古書の目録561ページ分を完成させるまでに、実に3年もの歳月が必要でした。
多くの人々の努力のかいがあって、オズボーン・コレクションの2冊の蔵書目録は、
世界中の学者はじめ、多くの人々に愛用されています。
「大英博物館にも、多くの子どもの古書があるが、
とてもオズボーン・コレクションのように整理されてはいないのである」(石井桃子)

1962年、トロント公共図書館の理事会は、同館の児童図書サービス開始50周年を記念して、
リリアン・H・スミス・コレクションを創設。
1910年以降イギリスで出版された文学的にも美術的にもすぐれた本が充実していて、
「少年少女の家」へ行けば、500年もの児童書の歴史を追うことができるようになりました。
1963年、古いヴィクトリア朝様式の建物に設けられたオズボーン・コレクション室の天井が落ちる
という悲運にあったものの、人と本に被害はなく、新しい「少年少女の家」が建てられました。
以前より適切な収納場所、冷暖房完備、湿度調節機、魅力的な陳列ケースなどの設備がしつらえられました。
そうして貴重な本の寄贈や寄付金に支えられ、79年の時点で1万5千冊もに及ぶ児童書を集め、
さらに「少年少女の家」の本は充実していきました。
「少年少女の家」を訪れる人々は年々、増えつつあるそうです。

さて、その後のオズボーン氏ですが、
1970年、トロント大学から名誉法学博士の学位を贈られました。
彼は、子どもの本のコレクションが学問の対象になるものであり、
老若男女を問わず人々に楽しみを与えるものとなりうることを見抜いた先見の明の人でした。
氏自身、亡くなる前まで熱心に本を寄贈し続けました。
「何度か、スミスさんがうれしそうに私に語ったことがある。
オズボーン氏は、古書の競売場にいって、コレクションに寄贈するための本を落札するとき、
『アイ・アム・オズボーン・オヴ・トロント!』と、名乗るのだというのである」(石井桃子)

日本のほるぷ出版からオズボーン・コレクションの復刻版が出版されることが決定。
契約のサインがととのってまもなく、オズボーン氏は78年11月24日、この世を去りました。
しかしながら、オズボーン氏の思い、そして、かつて夫人と蒐集し続けた大事な本たちは
分散することなく、後世にきちんと引き継がれました。

ところで、日本でのいきさつについて。
トロント公共図書館の児童部センター「少年少女の家」所蔵のオズボーン・コレクションから
何冊かを選び出して日本の人々に「復刻 世界の絵本館 オズボーン・コレクション」を届けたい。
そんな思いを胸に、ほるぷ出版編集部の編集者が78年初夏、児童文学者・石井桃子さんのもとを訪れました。

その後、編集者はトロント公共図書館を訪ね、話し合いの末、契約内容について合意に達します。
その秋、オズボーン・コレクション室の次長マーガレット・マローニーさんがセレクトした50冊を手に来日。
貴重な本ゆえ、郵送は許されないのでした。
50冊のうちから35冊をセレクトすることになり、マローニーさんを囲んで、ほるぷ出版の責任者、
編集部、製作部の面々、そして、石井桃子さんが意見をかわしました。
そのときの模様について石井さんはこう書いています。
「本を選ぶため、1冊1冊が人の手から手に渡り、もう一度マローニーさんのところにもどると、
彼女はすぐそれを、たとうのような入れ物に、宝物をしまうような手つきでしまってしまう。
私は、それまで自分がうかつに見すごしてきたオズボーン・コレクションの重みを思い知らされる気がした」。

石井さんは、このセットの解説書の翻訳も手がけました。
「3か月間、この解説書にかかりきって、オズボーン・コレクションについて知りえたことは、じつに大きい。
私は、この20数年来、リリアン・H・スミスさんとも、オズボーン・コレクション室に働く人たちとも、
わりあい親しくしてきたつもりであったが、具体的には彼らの仕事をよくつかんでいなかったと思った」と書いています。
「じつに、今日のオズボーン・コレクションは、初めに、あるひとつの核があり、
そのまわりに多くの人びとの努力と好意が結集してできあがったものであることを、
私は、この解説書を訳すことになって、初めて意識的につかむことができたのだった」とも。

トロントとほるぷ出版との間の契約はかなり厳密。
選び出した35冊の借用期間は6か月限り。残り15冊は、マローニーさんが大事に携えて帰国しました。

ほるぷ出版側は、わずか6か月の間に製版・校正を終える必要がありました。
日本の印刷所・製版所は、技術を結集させ全力を尽くしました。
「この復刻・製作の過程で明らかになったことは、これら草創期を代表する古典絵本が、
当時の限られた技術をフルに活かしながら、1冊1冊を、いかに丁寧な作業と工程によって
念入りに創られたものあったかということでした。手彩色や手刷り、手作業による
糸かがりによって造られた絵本を忠実に再現するためには、現代の最高の印刷技術をもってしても
幾多の困難を伴いましたが、それだけに、復刻出版のほるぷの伝統とその技術の枠をこらして、
ここに刊行の運びになりました」(出版にあたって、より)

多くの人々の思いをこめたこのコレクションは、79年、ほるぷ出版より発売されました。

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