古本 海ねこ トップページへ戻る

復刻 世界の絵本館
ベルリン・コレクション


cover ベルリン・コレクションは、オズボーン・コレクションとともに世界を代表する絵本コレクション。
ドイツ国立図書館の協力をもとに、同館が所蔵するドイツを中心とするヨーロッパ(大陸)の古絵本を復刻したものです。
18世紀半ばから19世紀はじめのものが中心で、オーストリア、フランス、スイス、ロシアのものも含まれています。
絵本の先進国イギリスより遅れていると考えられがちなドイツですが、
18世紀の後半からすでに銅版画によるすぐれた手彩色絵本が多数つくられ、周辺国に影響を与えていました。

ほるぷ出版社は、日本古代から近世にかけての古典籍の完全復刻や、
日本近代文学の初版本の復刻、日本近代文学の児童文学や絵本の初版本の復刻などを手がけてきました。
技術者や製作会社の技術を持ってしても、西欧の古絵本の復刻はかなり困難でした。
原本に使われているものと、できるだけ風合いや質の近い紙を選ぶこと、
手彩色による色彩、当時の木版、銅版、石版などによる手作りの彫版印刷の再現、
製本や表紙の箔押しなどなど、こえなければならない壁の連続だったそうです。

もともと子どもの本はぼろぼろになるまで読まれるので、寿命が短いのが普通です。
また、ドイツ国立図書館が所蔵していたものも個人所有だったものも、大戦中に疎開したり分散したりしていました。
同・児童図書部長のハインツ・ヴェーゲハウプトさんが復刻候補の古絵本およそ60冊を持って来日したとき、
原本の中には、表紙がとれていたり、のちになって造本されたものも何冊かあったそうです。
とくに18世紀末から19世紀初期にかけての本は、ほとんどが当時、またはのちの時代に補強されたり造本されたりしたものでした。
とはいえ、どんなにぼろぼろになり、煤けていても、何度かの戦火をくぐりぬけて残ってきたものたちであり、
古き時代の有名無名作家や画家たちの精神が、また、印刷・彫刷技術者たちの技術が、
また、おそらく安い賃金で働いたにちがいない子どもたちの彩色労働の苦労や汗がにじんでいます。
そういったものを汲みながら、挿絵、書体、装幀…当時の雰囲気をできるだけ忠実に再現されました。

ドイツ国立図書館の研究員による、くわしい解説書つき。
解説書にすべての本の日本語訳が収められています(一部、抄訳)。
作品ごとの解説もていねいなので、時代背景や、絵本作家・画家たちの苦心、ヨーロッパにおける児童文学の流れを知ることができます。
最初、大人が子どもを教育すべく訓戒めいた絵本が主流でしたが、
しだいに、子どもがユーモアを感じ取れる子どものための絵本へと発展していきます。
また、作り手と出版社のかけひき、画家と石版師たちの間の葛藤など、
どれもこれも一筋縄で生まれたことではないさまが伝わってきます。

もちろん日本の印刷所、製本会社の技術の結集でもあり、これほどのものはもう二度と作れないのでは?
稀有で貴重な復刻ものだと思います。
ほるぷ出版から1982年。今回、入荷分は初版です。 どうぞごゆっくり眺めてください。

20冊そろい。解説書、付録つき。輸送函なし。各冊、函あり。シミも少なめで、状態はかなり良好です。
当時の定価 9万5000円
再入荷分、品切れ


●編集委員 ハインツ・ヴェーゲハウプト(ドイツ国立図書館児童図書部長)
/野村ひろし(さんずいに玄)(東京外国語大学教授)
●編集協力/ドイツ国立図書館(東ベルリン)
●セット装幀/安野光雅


ベルリン・コレクション その1・その2





cover最新世界図絵 フルト・ベッヒャー、ヨハン・クシスティアン・シュネーマン編
マイセン ヴィーン 1843年
 小口シミ

子どものための、絵による百科事典です。
AからZまでのそれぞれの綴りで始まる単語に対応した絵が、1ページのなかにおさめられています。
読者が絵を見て、名称がわからなければ、その絵につけられた番号をたよりに5か国語
ーードイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語ーーの単語名と
味わい深い解説を見て、たちどころに理解できるように工夫されています。
「J」の項目には「Japaner」(日本人)についての説明が。
「性格はたくましく、勤勉で器用ですが、よく酒びたりになりますし、悪
がしこいところがあります」と書かれていて、びっくり。

1869年、ニュルンベルクにおいて、コメニウスの百科事典ふうの絵本「世界図絵ーー絵で示された目に見える世界」
が出版されました。150枚の絵によって全世界を秩序だてて紹介された本で、
絵本、図解辞典、知識のための事典の先駆的な本とされています。ベッヒャーとシュネーマンは
世界のあらゆる事物をアルファベット順に配列した最初の人物でした。

石版画家は不明。挿絵がこの時代のものを細部にわたって示し、
正確さにおいて19世紀の文化史の情報源ともなっています。
当時あまりにも高価な本だったので、リスクを少しでも回避すべく
出版者はオーストリアにも共同出版者を求め、11回の分冊で出版。
彩色されたものと、やや値段の安い無彩色のいずれかを選んで買える仕組みでした。

印刷…(株)金羊社 製本…(株)三水舎
サイズ260mm×171mm



cover時計 グスタフ・ホルティング文、テオドール・ホーゼマン絵
ベルリン 1842年


グスタフ・ホルティングはペンネームであり、本名はカール・グスタフ・ヴィンケルマン。
ヴィンケルマン出版社の設立者の息子でした。
父親がベルリンに石版印刷所 兼 出版社を設立するのにあたり、
12歳から家計を助けるため石版印刷所に弟子入りして働いていた
テオドール・ホーゼマンを引き抜いてベルリンへ連れてきました。

父が印刷の専門家、兄は出版社の商業的な方面を担当し、
ホルティングは文学的な面を担当。子どもの本を50冊以上書きました。
そのほとんどにテオドール・ホーセマンが挿絵を描いて、このコンビは大好評。
ヴィンケルマン社は毎年よい子どもの本を出版し続けて、19世紀の児童文学の世界で大きな役割を果たしました。
もっとも、父が亡くなり、兄が1850年に出版社から手をひいたあと、ホルティングは
ひとりで出版社を引き受けたため、子どもの本を書く暇もないまま死ぬまで出版社の仕事を続けたのです。

本書は、ヴィンケルマン社の典型的な絵本のひとつです。
八つ折判で12枚の紙を使い、文章も絵と同様に石版刷りされています。
カラーの見開きと、白い見開きが交互に出てきます。

午前4時、時計が4時を打ち、おんどりが鳴くとお百姓さんは仕事にかかります…。
5時、女中が火をおこし、コーヒーをわかす湯をかけます…。
6時、感心な子は元気にベッドから飛び起きて…。
「子どもたちよ、時が過ぎるのは速い。時間を大切にしましょう」といった内容です。

印刷…(株)東京写真印刷所 製本…(株)博勝堂
サイズ166mm×102mm



cover小さな赤ずきん グスタフ・ホルティング再話、テオドール・ホーゼマン絵
ベルリン 1842年


フランスにおける赤ずきんの昔話は、たいへん古くからあるもの。
基本的な要素は2ー3世紀前、すでに見出されています。
シャルル・ペローによって初めて「小さな赤ずきん」として書きとめられ、
「すぎし昔の物語ーーまたは小話集」(1697年)の中で公表されました。
ペローのお話は悲劇に終わって、赤ずきんに救いはありません。
グリム兄弟の本では、赤ずきんはおばあさんと一緒に狼のおなかから助け出されて、
子ども向けの明るいお話になっています。

本書は「時計」と同じくヴィンケルマン社の出版で、ホルティング&ホーゼマン コンビによる本。
ホルティングは、ペローの赤ずきんを自由に翻訳したばかりか、細部をかなり書き加えています。
しかし、話の基本はきちんと守って悲劇のまま終わり、読み手の子どもを戒める内容となっています。
ホーゼマンは、この「赤ずきん」や次の「白雪姫」のほかにも、
「シンデレラ」「長ぐつをはいたねこ」など昔話の挿絵をたくさん描いています。
ホーゼマンも、ありもしない架空の世界を子どもに信じ込ませるようなことはしないで、
登場人物の特徴を的確にとらえ、話の核心を単刀直入に描いています。

本書の挿絵は、手で彩色された石版画です。初版は1840年に出版されました。

印刷…(株)東京写真印刷所 製本…(株)博勝堂
サイズ164mm×104mm



cover白雪姫 グリム兄弟 作、テオドール・ホーゼマン絵
ベルリン 1867年


挿絵は、やはりホーゼマンの手彩色によるもの。
上記のものと同じくヴィンケルマン社から出版されていますが、1847年に出版された初版は石版刷りでした。
20年以上たって新版を出そうとした際、石版がすりへっていたので、
ホーゼマンの描いた石版画をパウル・クンツェが木版に彫りました。
木版にすることによって、より多くの部数を印刷することが可能となったのです。
判型もやや大きく、表紙は色刷りになっています。

「白雪姫」はもっとも人気の昔話。ヨーロッパ、アジア、アフリカの諸国に流布されていて、80以上の類話が知られています。
ドイツでは、ほかの多くの昔話と同様、グリム兄弟の「子どもと家庭のための昔話集」
(1812-1815)によって広く知られるようになりました。
昔話の収集にあたって大勢の力を得ましたが、グリム兄弟は民衆の語り口を適切に表現することを心がけていました。
とくに弟のヴィルヘルム・グリムはのちの版にまで手を入れ、人々の間に広まっている決まり文句、
よく知られているたとえ、擬声語を繰り返し使うことによって、古典的な昔話の文体を作りました。
本書は、グリム兄弟の「子どもと家庭のための昔話集」1819年刊行の第2版をわずかに変えたもの。
許可を得ていない複製であるためか、グリム兄弟の名は記されていません。

印刷…(株)東京写真印刷所 製本…(株)博勝堂
サイズ178mm×112mm



cover乳母の時計ー少年の魔法の角笛から ドレスデンの画家グループ(ルートヴィヒ・リヒターほか)絵
ライプツィヒ 1843年


祖国が危機にひんしているとき、ふたりの編集者ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムと
クレーメンス・ブレンターノが必死に古い民謡を収集していました。
古い民謡を通して、ドイツ民族の偉大さと豊かな文化を同時代の人々に自覚させようと志したのです。
民謡を歴史的な遺産として保存することが目的でなかったので、ふたりは大幅に筆を入れました。
そして、ついにドイツ民謡の集大成として「少年の魔法の角笛」を出版しました(1806年-1808年)。
最初に出した民謡集の第3巻には、付録として、子どもの歌170余りが含まれています。
その中のひとつが「乳母の時計」です。

ルートヴィヒ・リヒターは19世紀、もっとも人気だったドイツの挿絵画家。
ドレスデンの彼の周辺には、多数の画家が集まっていました。
20年以上もの間、週一度、集まっていた酒場で、画家集団の間で
「乳母の時計を絵本にしてみようじゃないか」という話になりました。
リヒターの回想録によれば、だれがどの詩に挿絵を入れるか、くじ引きで決めたそうです。

そうして画家9人が挿絵を描くことになりましたが、全体的なトーンはまとまっています。
フーゴー・ビュルクナーがひとりで木版画をすべて彫ったのと関係があるかもしれません。
また、この時代は、解放戦争とそれに続く王制復古の時代であり、潜在的不満とあきらめムードが立ち込めていました。
そんな中、画家たちは牧歌的世界にひきこもり、過去への憧れから中世を理想化して描いたのです。
子どもたちが目にすることがない夜の出来事を、やすらかに過ぎゆく満ち足りた時間として描いています。

印刷…(株)金羊社 製本…岸田製本工業(株)
サイズ 183mm×135mm



cover幼児と少年のためのABC絵本
ローベルト・ライニック文 フェルディナント・ヒラー曲 ドレスデンの画家グループ絵
ライプツィヒ 1845年


上の「乳母の時計」が成功。ドレスデンの画家グループは、再び共同で子ども向けの本を作ることになりました。
それで決まったのは、ABCの本を作ること。
もっとも、それまでのABCの本のようにアルファベットを覚えるための本ではありません。
画家10人は各自ファンタジーのおもむくまま題材を好きなように選び、
ABCは配列の順序として使われたのです。
牧歌的世界への回帰、村の生活の美化、過去への憧れである中世を描くなど、絵のトーンは共通しています。
「乳母の時計」と同様、だれがどの挿絵を担当するかは、くじ引きで決めました。
このようにして、まずは挿絵が完成しました。

文章をつけたライニックは、ほからがかでユーモアあふれる童謡や子ども向けの詩で当時、人気があった人。
ライニックはゲオルク・ヴィーガント出版社から、すぐれた木版画にすばらしい文章をつけてほしいと依頼されます。
しかし、一枚一枚の絵の題材がまちまちで結構扱いにくかったと、ライニックは書き記しています。
実際、一枚一枚の絵に彼がつけた歌や詩、寓話や物語は実にさまざま。
教訓的な教えやお説教は避け、冗談やユーモアにあふれています。牧歌的な傾向も大です。
とりわけ歌と詩が秀逸。ロマン派の民謡の伝統に忠実に、素朴な言葉づかいによって、
子どもたちがよく知っている出来事を綴っています。

当時、人気の詩には曲をつけるのがはやっていたようで、譜面がついています。
19世紀半ば、ライニックの歌や詩は、ハイネやガイベルと並んで多く曲をつけられていたほどです。
作曲を担当したのは、メンデルスゾーンの影響を受けたヒラー。
ベートーヴェンやメンデルスゾーンについてのすぐれた著作も残しています。

なお、ルートヴィヒ・リヒターは、Bの「絵売り商人」という絵の中で
画家グループの似顔絵を並べ、それぞれのイニシャルをつけています。

印刷…進洋印刷(株)製本…(有)東明製本
サイズ235mm×167mm



cover一年と一日ーー絵と格言のカレンダー
シュトゥートガルト エスリンゲン シュライバー&シル刊 1847年

少シミ

扉に「一年は365日、うるう年は366日あります」とあります。
以下、毎月ごとに見開きひとつ。左ページにはイラスト。
右ページには、その月を特徴づける風物詩と「家庭と学校で役立つ教え」が韻文で書かれています。

挿絵は鮮やかな色彩で、大きなお屋敷に住んでいる裕福な一家の生活を描いています。
居間は贅沢にしつらえてあり、庭や畑は手入れが行き届いています。
19世紀前半の絵本は、ほとんどすべて教訓的な目的を持って作られました。
「家庭と学校で役立つ教え」は、よく学び、親の言うことをよく聞いて、両親に感謝することを教えています。
貧しい人々のことにもふれてあり、読者は自分たちがいかに恵まれているか知ったことでしょう。

みごとな石版画の作者、テキストの著者名は本に記されていません。
絵本では珍しいことではなく、1831年に設立されたJ.F.シュライバー社から出版された絵本も、
最初はほとんど作者名なしで出版されていました。
子どものための絵本は、文章が韻を踏んだ戒めがいくつかあれば十分だと当時、考えられていました。
大切なのは、つねに絵のほうであり、それで作者名なしの絵本が多かったのでしょう。

ヨハン・フェルディナント・シュライバーは、1831年、エスリンゲンに石版印刷所を設立。
1846年、カール・シルとともに「シュライバー&シル」社を設立しました。
長年一緒にやってきたカール・ティネーマンも参加して、1840年から発行された絵本を担当。
韻を踏んだテキストは大体ティネーマンが書いていて、本書も同様です。
彼は1849年、シュライバー&シル社から分かれてシュトゥットガルトに児童図書出版のティネーマン社を設立。
設立の挨拶状で、ティネーマンがJ.F.シュライバー社のために作り、無記名で出した書名のタイトルを明らかにしました。
J.F.シュライバー社とティネーマン社は85年現在も存続し、絵本を出版しています。

印刷…(株)金羊社 製本…(有)東明製本
サイズ196mm×248mm



coverもじゃもじゃペーター ハインリッヒ・ホフマン作
フランクフルト 1847年


「ごらん ここにいるこの子を。うえっ! もじゃもじゃペーターだ!
両手の爪が一年も切らせないから伸び放題。髪にもクシを入れさせない。
うえっ! と、だれだって叫ぶんだ。きたない もじゃもじゃペーターだ!」という表題作ほか10編。
「とてもかなしい火あそびのお話」は、両親が留守中に、言いつけを守らず
マッチをつけた少年に火が燃えうつって、燃えつきて靴だけが残ったというお話です。
簡潔かつ印象的な詩句で、社会行動のためのきまりごとが語られています。

この本はドイツ語の絵本でもっともよく読まれ、もとの出版社から出たものだけで実に600版以上を重ねました。
あらゆる文化民族の言葉に訳され、おびただしい改作を生みました。

ハインリッヒ・ホフマン(1809-1894)は、フランクフルト生まれ。
1834年、開業医、1851年には市立の精神病院の院長になりました。
ホフマンはもともと詩や絵をかいており、病気の子どものために絵を描いてやることもありました。
すでに「もじゃもじゃペーター」の素地は生まれていたのです。
1844年、クリスマスの1週間前に、3歳半になる息子のために書店で絵本を買おうとしました。
ところが、適当なものが見つからず、かわりにノートを買ってきて手作りの絵本をこしらえました。
次々に絵物語を描いて、最後に残った1ページに書き添えたのが「もじゃもじゃペーター」でした。
出版者カール・フリードリッヒ・レーニングは絵本にして出版したいと申し出ました。
ホフマンは「子どもの本は見たり読んだりするためだけでなく、破かれるためにある。
それは子どもの成長の過程なのだから。子どもの本は代々、受け継がれてゆくようなものではない」と主張します。
また、自分が描いた「しろうと的な絵が万一、芸術的に修正されたり、理想的な姿に
なってしまわないように」石版に絵が描かれる際、監視しました。

翌1845年のクリスマス、「3歳から6歳までの子どものための、15枚の美しく
彩色された挿絵つき、楽しいお話とおもしろい絵」という題で出版。最初お話は6編でした。
発売1か月で1500部が売り切れ。第2版ではお話がふたつ増やされ、
子どもたちがこの本をもじゃもじゃペーターと呼び続けたので、
第3版は「もじゃもじゃペーター、あるいは、楽しいお話とおもしろい絵」に改題されました。
第5版になって10編がおさめられ、もじゃもじゃペーターから始まる今の配列になりました。
初めて作者名が明らかにされたのも、この版でのこと。
このころ、電解方式で銅版に写すことにより、木版刷りでの大量印刷が可能になりました。

ホフマンは、道徳的な教訓を押し付ける本を作るつもりはありませんでした。
子どもは単に目からのみ学び、見たことのみを理解する。道徳的な命令を聞かされても、
子どもには意味がない。きたない子ども、燃えている服…、不注意の結果に起きた災難の絵など、
目に見えることのみがはっきりとことをわからせる、と書いています。
本書は、子どもたちにわかるように、原因と結果、悪いこととその報いをはっきり示しています。
大人にとっては手ごろな教育手段となる絵本なのですが、子どもたちは、
残酷な描写に、どこかユーモラスなものを感じ取ったようです。
シュールですが、どこかコミカルな絵は、今見ても新鮮。手彩色も美しいです。

印刷…平版印刷(株) 製本…(株)三水舎
サイズ243mm×193mm



cover復活祭のうさぎ ゲオルク・シェーラー詩 フランツ・ポッツィ絵
ネルトリンゲン 1850年

小口・裏表紙シミ

復活祭のとき「子どもへの贈り物」として作られた絵本です。
牧歌的な自然描写、宗教的なシーンや伝説、子どもたちへのユーモラスな戒めなど、さまざまなテーマの詩がおさめられています。

フランツ・グラーフ・フォン・ポッツィ(1807-1876)は、ミュンヘン生まれ。
法律を学んだのち見習い官吏となって、バイエルン王国のルートヴィヒ1世にその芸術的天分を認められました。
ポッツィは実に多才。詩を作り、絵を描いて、作曲し、ミュンヘンの人形劇場のためにあやつり人形劇を40編書きました。
また、子どものために文を書いて絵本を作り、アンデルセンやグリムの童話も含め100冊以上の本の挿絵も手がけています。
ポッツィは読者に迎合することを嫌って、ある本の原画が木版に写されたとき、
「もともとの特徴は奪われて形だけが残り、私の描いた子どもの絵の大半は
モード雑誌に出てくる小さなモデルに変えられた」と嘆きました。
その点、本書の挿絵の石版画は、ポッツィの特色をよく示しています。
判型が大きく、芸術的完成度にこだわらない、のびのびとした作風が楽しい絵本です。
「夕暮」という作品では、夜に使う道具を擬人化。とんがり頭の火消しや陰気な顔のローソクばさみがしゃべったりします。

ゲオルク・シェーラー(1824-1909)は、本書の詩を書いた当時まだ学生でした。
のちにシュトゥットガルトの大学で美術や文学史を教え、子どものためのアンソロジーを多数出版しています。

印刷…(有)東京工芸印刷 製本…大口製本印刷(株)
サイズ291mm×212mm



cover新シルエット絵本 カール・フレーリッヒ作
ブレスラウ 1859年


AのAffen(サル)から始まって、Zの「Zierlich(愛らしく)きゃしゃで
かわいらしいAからZまでのたくさんの絵。子どもたちよ、楽しむためにはさみを進んで使いなさい!
このしまうま(Zebra)が上手に切れたら、あなたは切り絵の名人です」まで。
読み方を覚えるための読本やABCの本というわけではなく、切り絵による挿絵がアルファベット順に並べられた「絵本」です。

「シルエット」は影絵または切り絵のこと。18世紀後半、ヨーロッパで流行しました。
横顔のシルエットだけで実物によく似た肖像画を簡単に作れて、
しかも、銅版の肖像画や細密画よりはるかにロー・コストだったからです。
ドイツでは19世紀半ばまで、とくに横顔のシルエットが大流行しました。
本の挿絵に初めてシルエットを使ったのは、フランツ・ポッツィ。はさみを使う切り絵でなく、墨で影絵を描きました。
もっともすぐれた切り絵の作家は、カール・フレーリッヒ(1821-1898)。
フレーリッヒは、シュトラールズント生まれ。
10歳のころすでに臨時工として働かざるをえず、12歳のときに植字工の徒弟になりました。
若いころから文学的な習作や詩作、切り絵に取り組んでいました。
1844年、フリーの作家および切り絵作家として、ベルリン住まい。
数多くの本や青少年向け雑誌の挿絵に切り絵を創作し、影絵に自分で詩をつけた本も何冊か作っています。

本書では、はさみと紙を器用に使いこなして、小市民の牧歌的な世界を優美に表現しています。
木の枝の葉一枚一枚まで細かく表現し、ディテールまでこだわっています。
輪郭だけの切り絵には飽き足らず、風景や動物の切り絵に針で隙間をこしらえ、
ひっかくことによって黒い内部に白い輪郭線を作り出すというこりようでした。

フレーリッヒは、シルエットが子どもの想像力を刺激し、
子どもが思わずはさみでシルエットを作りたくなるように願っていました。
本書は「最初の芸術入門書として、はっきりした形への感覚を目覚めさせ、
同時にまた、幼いときから遊びながら芸術に親しませる傾向を伸ばすための」本でした。

印刷…江川堂印刷(株)製本…文勇堂製本工業(株)
サイズ229mm×170mm



cover皇帝の狩猟 アゲンタール編集・出版
フランス ポン・タ・ムソン アゲンタール 1867年ごろ
 表紙・見返し少シミ

ひと続きの一枚絵が折りたたみ式で本におさめられている「レポレロ本」です。
「レポレロ本」の名前の由来は、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」の登場人物、給仕のレポレロ。
オペラの中では、ドン・ジョバンニの多数の恋人たちを書き記すため給仕レポレロが折りたたみ式の手帳を作っているのです。
長い絵を本の形にして携帯できるレポレロ本。この形式は、昔から中国や日本では
よく知られていましたが、ヨーロッパで盛んになったのは18世紀ごろです。
1820年から1835年の間に、ロートリンゲンでは150センチの長さの一枚絵が多数、出版されています。

1849年、エリ・アゲンタールが西フランスの小さな町に版画製作所を開きました。
すでに木版画の最盛期(フランスでは19世紀前半)は過ぎていて、
木版画の工房はすでに閉鎖されるか、ほかの仕事への移行を余儀なくされていました。
石版画が普及し、絵のディテールまで微妙な表現が可能となったので、木版画はぎこちなく古臭く感じられていました。
アゲンタールもまもなく石版画に取り組み、ほかの町に残っていた出版社と張り合うようになります。
この地方には、一枚絵の出版社が集中。アゲンタールも、1867年ごろレポレロを多数、出版しています。

アゲンタールの折りたたみ本の主題は、皇帝の行進や馬の遠乗り、狩り。
彼の工房の優秀さは、ハイクオリティーの線画、みごとな構図、洗練された配色という点にあります。
本書の表紙には「フォンテーヌブローでの皇帝の狩猟」とあり、扉にはこう書かれています。
「皇室とその随員たち、騎馬隊や猟犬係などがくり広げる、はなやかな景観と場面展開の色あざやかなパノラマ」。
フォンテーヌブローは、パリの南方60キロほどにある街。
12世紀から王室の狩猟地として知られ、
16世紀にはフランソア1世がイタリアの芸術家を招いて城を建てさせ、フランス・ルネサンスが開花。
1814年、ナポレオン1世はここで退位し、エルバ島に流されたといわれていますが、
本書にはナポレオン3世時代の宮廷風俗が、豪華けんらんに展開されています。
4つの場面展開にしたがって、文字は「集合」「獲物を追いつめたときの叫び」「獲物の生肉の分け前」とあるだけ。
ナポレオン3世の時代のきらびやかな世界を、調和のとれた色彩であでやかに見せます。
服装の細部まで忠実に再現されているので、わずか20年間しか続かなかった第2帝制(1851-1871)の資料価値も大。
多くの一枚絵と同様に、画家の名前は不明です。

印刷…(株)東京写真印刷所 製本…(株)博勝堂
サイズ183mm×134mm

ベルリン・コレクション その1・その2



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