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復刻 世界の絵本館
ベルリン・コレクション
ベルリン・コレクション その1
・その2
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マックスとモーリッツ ヴィルヘルム・ブッシュ作
ミュンヘン 1870年
小口シミ・裏表紙少よごれ
ふたりのいたずら小僧たちを主人公にした、痛快ないたずら物語です。
楽しい詩と絵で子どもたちに親しみを持たせながら、教訓を与えようと意図されています。
児童文学において初めて、子どものいたずら、それも、いたずらっ子のいたずらを描き、
さらに大人の偶像ぶりとその弱点を容赦なく笑いものにした作品です。
抑え目の文章のまじめくさった調子で、アクションいっぱいの劇的な物語を描き、
見せかけと実態の違いを強調して、おかしみを増しています。
ブッシュの皮肉は、いつもいたずらの犠牲者にだけ向けられているので、 幼い読者は安心して楽しむことができます。
しかも、いたずらや悪さぶりがあまりにも突拍子もないので、非現実的なファンタジーみたい。
子どもたちがマネするおそれはなく、おそろしい結末に気分が重苦しくなることもありません。
ヴィルヘルム・ブッシュ(1832-1908)は、ハノーヴァー近くのヴィーデンザール生まれ。
ドイツ文学における数少ない、すぐれたユーモア作家、挿絵画家、叙情詩人です。
もともと機械技師になるつもりで工科大学に入学したものの退学。
1981年から1864年にかけて中断しつつも美術大学で学びました。
1859年、彼の最初の絵が、風刺的な週刊誌「フリーゲンデ・ブレッター」に掲載されました。
1859年の絵物語「小さなはちみつとどろぼうたち」はミュンヘン一枚絵にも掲載されました。
以来、1871年までの間に、同誌に136回にわたって1000枚以上の木版画を描き、そのほとんどに自分で文も書いています。
ブッシュは1枚の絵につき、文章は2行ほどと極力、短く抑えました。
言葉で表現しがたいものまで絵に語らせ、文章の説明をあまり必要としない「絵物語」という形式を考案したのです。
このような絵物語をブッシュは1871年までに、ミュンヘン一枚絵のために50編作り、10編を単行本として刊行しました。
1864年、ブッシュはドレスデンの出版者ハインリッヒ・リヒター(有名な挿絵画家
ルートヴィヒ・リヒターの息子)に、印税なしで「マックスとモーリッツ」の出版を申し出ました。
同年、同じ出版者から出したブッシュの4冊の絵本の売れ行きが悪かったので、その埋め合わせのつもりでした。
しかし、それ以上の危険を冒すことを恐れたハインリッヒ・リヒターに断られてしまいます。
そこで、ブッシュはこの作品をカスパル・ブラウンの「フリーゲンデ・ブレター」誌に持ち込みます。
老練な出版者であり、自分でも同誌に数多く芸術的な作品を描き、歴史画家でもあったブラウン
は、この新しい絵物語の価値を認め、即座に出版を引き受けます。
その年のうちにブラウン・ウント・シュナイダー出版社は「マックスとモーリッツ」を4000部出版。
ユーモアを解さない教育は、この絵物語は子どもに有害だとみなしましたが、同書は大成功。
毎年、新しい版が重ねられ、何百万部も売れて、30か国語に訳されました。
もっとも、ブッシュはこれで一躍有名にはなったものの、経済的にはちっとも恵まれませんでした。
70歳の誕生日に初めて、出版社からささやかな、大変遅い埋め合わせとして2万マルクが送られてきました。
しかし、ブッシュは一応受け取りましたが、すぐに病院に寄付。
死ぬまでの10年間、彼は隠退して、村で暮らします。
印刷…平版印刷(株) 製本…文勇堂製本工業(株)
サイズ213mm×138mm
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子どもの歌の泉 ドイツ古謡 フェードル・フリンツァー絵
ベルリン 1883年
ドイツの古いわらべ歌が24曲入っています。
歌の内容を絵で表現し、さらに絵と調和するように、絵の中に歌詞が手描きで添えられています。
もともと、これらの挿絵は「絵入り婦人新聞」のために描かれたもの。
1881年、この新聞の付録として1枚ずつの絵の形で掲載されました。
それをもとに1冊の絵本をこしらえたのが本書です。
出版者は慎重な人物で、初版は1000部のみでした。
しかし、すぐ売り切れ、さらに第2版、第3版もすぐ売り切れて、同年のうちに第5版まで出版されました。
フェードル・フリンツァー(1832-1911)は、フォークトラントのライヒェンバッハ生まれ。
1849年からドレスデン芸術アカデミーで学び、ルートヴィヒ・リヒターらの指導も受けます。
学業の合間に家庭教師をし、子どもの本の挿絵を描いて、生計を立てていました。
1859年、ケムニッツで絵の教師に、1873年、ライプツィヒで市の絵画指導官になって、絵画教育の改革に力を尽くしました。
フリンツァーは子どもの本60冊ほどの挿絵を描き、そのうち数冊には文も書いています。
初期の挿絵には、彼の師であるルートヴィヒ・リヒターの影響が見られます。
しかし、まもなくそこから離れて、とくに動物の絵に熱心に取り組みました。
猫が好きで「子猫ちゃんの悲しみと喜び」「牝猫ムルの日記」なども描いて、「猫のラファエロ」とも呼ばれました。
フランスの画家グランヴィルの影響を受け、後期作品では動物たちに服を着せたり、
動物の姿を借りて人間の行動をなぞったりしています。
しかし、本書では、動物はあくまでもその動物らしく、やさしくユーモアをこめて描かれています。
このころは、まだ手彩色です。19世紀末からの絵本の大量生産と色彩印刷は、
フィンツァーの後期の本に影響を及ぼし、彼の絵本はかえって深みを失ったといわれます。
印刷…秀英堂紙工印刷(株) 製本…(株)三水舎
サイズ194mm×195mm
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子どもたち アナトール・フランス作 M・ブーテ・ド・モンヴェル絵
パリ 1887年
表紙少シミ
アナトール・フランスの有名な「我々の子供たち」(Nos Enfants)に、
ケイト・グリーナウェイの影響を受けたブーテ・ド・モンヴェルがかわいらしい絵を描いた本です。
「ファンション」「仮装舞踏会」「学校」「マリ」「牧畜の笛」
「ロジェの馬小屋」「勇気」「カトリーヌのお客日」「海の子」の9編。
フランスの絵本は長い伝統を持ち、他国にも影響を及ぼしました。
ドラクロワ、ポール・ガヴァルニ、グランヴィル、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・ドレら
重要なフランスの画家たちは、デフォー、スウィフト、セルバンテスと いう世界文学の作家たち、
また、ペロー、グリム、ハウフ、アンデルセンらの童話・昔話の挿絵を描いています。
これらはのちに子どものための本となっていきました。しかし、もともとは子どものための本でなく、
作り手たちも子どものための本を作ったわけではありませんでした。
19世紀末の4半世紀、安価でけばけばしい色をした絵本や豪華本には、色刷りが多用されました。
そのような状況で若いフランスの芸術家たちが子どもの本に取り組んだのです。
モーリス・ブーテ・ド・モンヴェル(1851-1913)は、オルレアン生まれ。
70年代に東洋の宗教的絵画によって成功をおさめ、肖像画、歴史画も描きました。
また、童謡、寓話、絵本のために描いた絵によって世界的に有名になり、
彼の絵本はドイツ、スウェーデン、アメリカでも出版されました。
モンヴェルは、絵の解釈、構図、色彩など、イギリスの女流画家ケイト・グリーナウェイに強く影響を受けました。
しかし、彼の描く子どもたちは素朴に簡潔な線で描かれています。
多くはただ輪郭が描かれているだけで、色も薄くしてあるので、ひじょうに明るく澄んだ印象を与えます。
グリーナウェイが絵本の中で子どもたちに着せた想像豊かな衣裳が子どもたちの世界で
そのまま流行となったのに対して、モンヴェルは自分の子ども時代の服を素朴に描いています。
これまで紹介した「もじゃもじゃペーター」や「マックスとモーリッツ」は絵本の正統派と違って痛快ですが、結末は悲劇的でした。
これらの絵本のあと、やわらかな色調や牧歌的な世界が再び登場するようになってきました。
アナトール・フランス(1844-1924)は、書籍商の息子として生まれ、編集顧問および図書館監督官になりました。
フランスの重要な小説家および文芸批評家のひとりであり、1921年にノーベル賞を受賞しています。
作品の根底にはフランスの人文主義があり、周囲の世界への懐疑的な観察者、
市民社会へのきびしい批判者としての立場から、しだいに社会主義へと向かいます。
なお、アナトール・フランスは「少年少女」という下巻も出していますが、
そちらの10編もくわえて「少年少女」という書名で、三好達治の名訳を読むことができます(岩波文庫)。
印刷…(株)精興社 製本…(有)東明製本
サイズ288mm×211mm
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ガチョウ将軍とその兵隊たち ロタル・メッゲンドルファー作 フランツ・ボン詩
ミュンヘン 1890年
表紙少シミ
「ガチョウ将軍とその兵隊たち」「踊り熊」「高利貸しのまんまるさん」の3編。
仕掛け絵本もたくさん残した、想像力豊かな絵本作家メッゲンドルファーの作品です。
教訓的であることより、ドタバタ騒ぎなどでおもしろさを追求した作者の姿勢が生かされた絵本です。
メッゲンドルファーの絵本は、ドイツの児童文学にユーモアを導入しました。
メッゲンドルファーは、ミュンヘン生まれ。
ミュンヘンの美術学校に学び、早くから「フリーゲンデ・ブレッター」誌に寄稿していました。
絵本150冊の挿絵を描き、その大半は自身で文も描いています。
アイディアマンの彼は、1889年、ユーモア週刊誌「メッゲンドルファー・ブレッター」を創刊。
最初の数年は文も絵もひとりでかいていましたが、後年、寄稿者もでき、1928年まで続きます。
メッゲンドルファーは、ユーモアと動きに満ちたドタバタ騒ぎを好んで描きました。
平面的な場面描写だけでは飽き足らず、数多くの仕掛け絵本を考案。最初の仕掛け絵本は1878年に出版しています。
どこか引っ張ったり、たたんだり、回したりすることによって、人物が動いたり、場面が変わったりします。
子どもたちがよく遊んだためボロボロになったのでしょう。
発行部数が多かったにもかかわらず、今日、完全な形で残っているものはほとんどありません。
ミュンヘン一枚絵にも、60編をこえるユーモラスな絵物語を描いています。
本書の3編も、はじめ一枚絵として1881年から1882年にかけて発表されました。
メッゲンドルファーの一枚絵は好評で何度も増刷したばかりか、やがて絵本として出版されました。
一枚絵3つで絵本1冊となり、メッゲンドルファーの一枚絵絵本は10冊出版されました。
ほかの作者の文章に挿絵をつけることはほとんどありませんでしたが、
彼の絵物語にほかの作者が文を書くことは何度かあります。
フランツ・ボンとはよくコンビを組んでいて、ボンは、メッゲンドルファーのために、
ミュンヘン一枚絵に30点、ほかの絵本に11点、文を書いています。
フランツ・ボン(1830-1894)は、ミュンヘン生まれ。法律を学び、検事となりました。
公爵家に雇われて働いている間に時間ができて、作家活動もするようになりました。
彼のユーモラスな詩句は、メッゲンドルファーの絵本とともに愛され続けました。
印刷…秀英堂紙工印刷(株) 製本…(株)博勝堂
サイズ226mm×149mm
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花のメルヘン エルンスト・クライドルフ作
ケルン 1900年
スイスの画家・詩人であり、ユーゲント様式(シュテイール)のもっとも重要、かつ個性的な絵本作家クライドルフ。
「花とメルヘン」はクライドルフの最初にして、もっとも有名な絵本です。
クライドルフは16枚の水彩画を石版に描くのに、ほぼ1年費やしました。
どの絵を描くためにも、それぞれ8枚から10枚の石版が必要でした。
何週間か自ら印刷にも立ち会ったこの絵本の美しさは、石版オフセット印刷のさきがけをなすものでした。
エルンスト・クライドルフ(1863-1956)は、スイスのベルン生まれ。
コンスタンツの石版製作所で修業ののち、商業デザイン、さらにミュンヘンの警察報に
指名手配の犯人の似顔絵を描くことで生活費を得ながらミュンヘンの美術工芸学校、さらに美術大学で学びました。
1916年以降は再びベルンに戻って暮らしました。
彼の最初の絵本「花のメルヘン」の水彩画は、1896年にはすでに完成していました。
クライドルフは2年間、あちらこちらの出版者へ持ち込みましたが、きれいな絵だとは言われても、
目新しさのために出版しようというところは見つかりません。
結局、クライドルフから長年スケッチや絵を教わっていたシャウムブルク=リッペ公爵夫人が
資金を援助してくれることになり、1898年、ミュンヘンのピローティ・ウント・レーレ社から出版しました。
19世紀の終わり、写真複製方式の普及によって、本の文化は衰退の傾向にありました。
絵本もまた、値段の安いマスプロ商品へと化していったのです。
ドイツにおいても、日本の彩色木版画や、イギリスの絵本作家カルデコット、
クレイン、グリーナウェイが注目を集めてはいましたが、
転換期をもたらしたのは、クライドルフでした。
クライドルフは、装幀や見返し、タイトル・ページのデザインも手がけて、本の内側と外側の調和を目指します。
そのことによって、イギリスにおいて書物芸術運動が追求したのと同じ芸術的な完成度に達しました。
「花のメルヘン」は、子どもに芸術的に高い水準の絵本を与えようとした芸術教育運動に支援されて、
1900年、シャフシュタイン出版社にひきつがれて「芸術的な絵本」という新しいタイプの本を生み出し、
子どものための書物芸術の転換期をもたらすことになりました。
ユーゲント様式の時期の根本感情は「自然を新しい目で眺め、自然の中へ出ていこうとする旅立ちの心」です。
クライドルフは動物や植物を擬人化して描いた多くの絵本を出版しますが、
しだいに人々の期待は、擬人化された自然を描いた絵本だけに集まっていきました。
クライドルフの絵本は全部で25冊あり、ほとんど文も自分で書いています。
1933年には、ベルン大学の名誉博士の称号を授けられています。
印刷…(株)精興社 製本…大口製本印刷(株)
サイズ239mm×353mm
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フィッツェブッツェ パウラ&リヒャルト・デーメル文 エルンスト・クライドルフ絵
ベルリン ライプチヒ 1900年
子どもに向けた詩が25編。「子どもの立場からの文学」という新しい傾向の先駆的作品です。
1901年には重版され、1907年には音楽つきで幻燈が上映され、のちには踊りまで作られました。
「フィッツェブッツェ」とは、最初の詩に出てくる人形の名前。子どもに向けた詩が25編収められ、
「フィッツェン」は糸などがもつれること、「ブッツェ」は小人のこと。子どもに向けた詩が25編収められ、
つまり、ドイツの子どもに人気のおもちゃ「糸引き人形」を意味しています(表紙・中央の絵)。
リヒャルト・デーメル(1863-1920)は19世紀末から20世紀初頭のドイツにおいて、もっともすぐれた叙情詩人のひとりです。
大学で自然科学と子民経済学を学び、文学博士号を取得。
1887年から95年まで保険組合の事務局に勤務したのち、文筆活動に入りました。
パウラ・デーメル(1862-1918)はユダヤ教改革派の伝道師 兼 教師の娘として、ベルリンに生まれました。
1889年から1898年、ふたりは結婚生活を送り、夫婦で数多くの童話・童謡を書きました。
離婚後も一緒に仕事を続け、ドイツの童謡界に新風を吹き込んで「因襲にとらわれない、
子どもの側につねに立っていた詩人」と称されました。
しかし、本書を出す出版社はなかなか見つかりませんでした。
すでに1895年、この本の草稿はブラウン&シュナイダー社から送り返されていました。
1900年、ようやく、当時創立されたばかりのインゼル社から出版される運びになったのです。
デーメルは「もじゃもじゃペーター」を打ち負かすような本にしたい、と書いています。
「文も絵も、本当に子どもの心や感覚にかなうーーそれもちゃんとした芸術的効果によってーーそういう本を作りたかったのです」と。
これは「もじゃもじゃペーター」の教育的意図、さらには子どもの本における教育性に対抗するものでした。
文章も絵も、子どもの心や感覚にかなうようなおもしろいものを目指して、日常の出来事を素材にしています。
教えもしなければ、戒めもしない、ただ楽しませることだけを目的とした絵本でした。
デーメルは、鑑賞家向きの洗練された作品にしたくなかったので、挿絵画家を選ぶのにも苦心しました。
「花のメルヘン」を見てクライドルフの中に「子どもの独創性と、とらわれない生の感覚」
を感じたデーメルは、挿絵をクライドルフに依頼します。あえて「花のメルヘン」の挿絵を
批判したうえで、「フィッツェブッツェ」のイメージを説明したのです。
デーメルが要求したのは、形の芸術的単純化、はっきりとした単色による着色
(「子どもたちが見るのは、自然界のさまざまに混じりあった色合いではなく、
わずかの、強烈に押し寄せてくる面や点である」)、そして、きつい感じの自由な筆づかい
でした。「多少ごつごつしていてもよい」と説明したのです。
クライドルフはデーメルの指示に従いました。
その結果、仕上がってきた下絵を何枚か見てデーメルはすっかり感激し、
「新鮮で作りすぎていない」その絵をそのまま受け取りたいと思ったほどでした。
そんな経緯から「フィッツェブッツェ」はクライドルフのほかの絵本とは異質の仕上がりになりました。
本書には典型的なユーゲント様式の要素も見られますが、クライドルフの描写は写実的です。
子どもの姿を美化することなく、ありのままに描いています。
当時は「子どもの顔が不恰好に描かれている」という批判も受けたそうです。
印刷…(株)精興社 製本…(有)東明製本
サイズ296mm×228mm
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昔話ーー美わしのワシリーサ イワン・Ja・ビリービン絵
セント・ペテルスブルク 1902年
むかしむかし、ある国にひとりの商人がおりました。
12年間、連れ添った奥さんとの間に、ワシリーサという女の子がいました。
息を引き取る前、母親は8歳だったワシリーサを呼びよせ、毛布の下から人形を取り出して渡し、こう言いました。
「母さんはもうこれ以上生きられないから、この人形を置いてゆくよ。
くれぐれも大事にしておくれ。そして、いつでもそばに置いて、だれにも見せるんじゃないよ。
もし、おまえに何か悪いことが起こったら、人形に食べ物をやって、どうしたらいいか尋ねてごらん」
イワン・ヤコーヴレヴィッチ・ビリービンは、帝政ロシア末期の新進芸術家のひとり。とくに子どもの本の挿絵で有名です。
ペテルスブルク近くのタルコフカに生まれ、法律学を学ぶと同時に、絵画学校に1895年から1898年まで通いました。
その後、別の学校でイリヤ・レーピンの教えを受け、1904年まで芸術アカデミーで学びます。
1899年、ロシアの芸術家たちの展覧会の組織「芸術世界」の国際美術展に参加しています。
ロシアの芸術家たちの中には、ペテルスブルクのロココ芸術や古典主義芸術の様式につながる人もいましたが、
ビリービンはモスクワやその周辺にできつつあるグループに属していました。
このグループは、古い民衆の芸術を重んじ、民衆の暮しをよりどころとしていました。
ビリービンは、1899年、ロシアの昔話に挿絵を描き始めました。
この時代、昔話が持つ意味は大きかったのです。
子ども時代が本当に幸福な唯一の時代であるとみなされ、子ども時代に昔話に憧れた経験までもが重要視されました。
そのため昔話をそのままを絵画化するというより、昔話の特殊なフンイキの再現こそが重要でした。
ビリービンは神秘的なロシアの森を表現することで、昔話の本当のフンイキを描き出すことができました。
そのベースには、古いロシアの芸術の伝統、民衆の芸術と民衆の暮しへの志向があります。
ビリービンは古いロシアの細密画やイコン画、民族的な装飾モチーフから学んだため、作品には高度に美的な装飾性があります。
ビリービンの話の進め方は、ロシアの民衆の一枚絵である「ルボーク」から生まれたものです。
子どもや文字が読めない人でも話を理解できるように、絵の中で事物がつなぎあわされたものでした。
ユーゲント様式によく見られる絵の縁の装飾には、祖国の動物と植物が使われています。
テキストのページの縁には、手の込んだ技法を用いています。大きな挿絵の上にテキストのシートを
置くことで、挿絵の縁の部分を全体の枠と見立て、話の展開をいっそう広げることができました。
日本の色版木版画による影響も多く見られます。
ふんだんに装飾された大型本という新しいタイプの絵本を完成させ、
この形式は現代に至るまでレニングラードとモスクワで守られています。
彼は石版の色刷りには、最良の印刷工場を持つ国立印刷所を使い、そこから本を出版することができました。
1901年から1903年に、そこから6つのロシアの昔話が分冊で出版されました。
それらの本のため、ビリービンは絵のみでなく、表紙のデザインと活版印刷にも気を配り、すべての部分を仕上げました。
そのかいあって、昔話の挿絵によって、この若い画家は名声を得ました。
ストライキと暴動(1905-1906)の間は戯画風刺漫画新聞で仕事をして、
1907年から1917年まで芸術振興協会の絵画学校で教えていました。
ほかに、パリ、モスクワ、ペテルスブルクのオペラハウスで舞台装置の絵も製作しています。
1920年から1936年の間に、カイロ、アレキサンドリア、パリなどに滞在。
ソヴィエト連邦に帰ってからは、レニングラードの芸術大学の教授として死ぬまで教鞭をとりました。
印刷…秀英堂紙工印刷(株) 製本…(株)博勝堂
サイズ325mm×257mm
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すばらしき歌の響きーードイツの民謡とわらべ歌 W・ラブラー編・採譜 H・レフラー、J・ウルバン絵
ウィーン ライプツィヒ 1907年
オーストリアの画家ふたりが描いた本書は、ウィーンのユーゲント様式(この国に
おけるアール・ヌーヴォーの展開)の典型的な作品です。
ふたりは、それぞれ舞台装置家・建築家であり、両者の才能が多彩な色どりによる装飾的画面に生かされています。
ハインリッヒ・レフラー(1863-1919)はウィーンに画家の息子として生まれ、
ウィーンとミュンヘンのアカデミーに通いました。
はじめ風俗画と風景画を描いていましたが、のちに工芸に取り組み、
内装・家具・ついたて・時計・刺繍などをデザイン。
ユーゲント様式の精神にもとづいた芸術家集団・ハーゲン芸術家組合を、義理の兄弟であるヨーゼフ・ウルバンとともに1900年、設立。
ウィーン宮廷歌劇の舞台装置監督となり、舞台設計および衣装デザインを手がけます。
1903年、ウィーン芸術アカデミー教授。同年、フランツ・ヨーゼフ2世の祝賀祭パレードのための計画を、ウルバンとともに立案。
商業美術家としては、初期のユーゲント様式のポスター製作にたずさわったひとりであり、
18世紀末より以前からユーゲント様式の本作りをしていました。
ヨーゼフ・ウルバン(1871-1933)は、ウィーン生まれ。
ウィーンの芸術アカデミーに学び、建築家としてオーストリアで活動。
ユーゲント様式の建築物を多数デザインし、室内装飾そして多くの展覧会の構成などを手がけました。
1911年、アメリカ合衆国に渡り、ボストンでオペラの舞台装置家に。
1918年以降、NYのメトロポリタンオペラ劇場の舞台装置監督となりました。
さて、レフラーは1897年、アンデルセンの童話「王女と豚飼」に挿絵を描き、注目を浴びました。
1年後、ウルバンと共同で挿絵を描いたムゼーウスの「ローラントの見習い騎士」が出版され、その後も本を何冊も出版。
それらの中でもっとも重要なのが「すばらしき歌の響き」です。
ウィーン派は、ユーゲント様式の中でも独自のスタイルを持っていますが、
その基本的要素をすべて、この絵本は含んでいます。
ユーゲント様式に一般的に見られる装飾性への好みに加えて、
ほとんど幾何学的に分割された画面の上に多量に描き込まれた飾りと、
多彩なわりに微妙な配色が、ウィーンのユーゲント様式の特色です。
ただし、動きとふくらみに富む線の流動は見られないことが多いのですが、
「すばらしき歌の響き」における挿絵の美的要素は、多種多様です。
淡く、かすんだ、やわらかい色調のウィーンふうの水彩画から、
色刷り木版画のように見える絵まで、さまざまな手法が用いられています。
登場人物たちに豪華な衣装を着せ効果的に配置しているのは舞台装置家レフラーらしく、
また、装飾的な要素や画面の縁を大いに飾りたてているのは建築家ウルバンらしい点です。
テキストとして、よく知られた46のドイツ民謡とわらべ歌が、楽譜と一緒に掲載されています。
シューベルト作曲の歌曲「菩提樹」、ゲーテの詩による「野ばら」、シラーの詩でウェーバー作曲の「狩人」など有名な歌も入っています。
「聖夜」のように、「きよしこの夜」のよく知られた歌詞を改めたものもあります。
なお、表紙に出版者名がふたつ印刷されていますが、ふたつの出版社の所有者は同一人物です。
ゲオルク・フライタークは1881年から、自分の名前を社名にした出版社をライプツィヒで経営。
1846年に創立されたウィーンのF・テンプスキー出版社を1889年に買い取り、社名は変更させずに継続させました。
(ユーゲント様式についての本は、当店ビジュアル洋書の棚にもあります)
印刷…秀英堂紙工印刷(株) 製本…大口製本印刷(株)
サイズ259mm×318mm
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小さな王さま フリッツ・フォン・オスティーニ作 ハンス・ペラル絵
ミュンヘン 1909年
綿密で奔放な点描派ふうの絵、金をふんだんに使った華美な本づくり…、たいへん豪華な絵本です。
むかしむかし、魔法がきびしく禁じられている今日と違って、まだはるかにたくさん
魔法が使われていたころのこと、ヘルツライデという名の女王様がいました。
女王様は心優しく立派な人でしたが、たいそう不幸でした。
夫である王様はまったく思いやりがなく、粗野で残忍な人だったからです。
その王様が戦争で亡くなると、ヘルツライデにとって、ますますひどいことになりました。
というのは、王様の母アマラが健在であり、アマラは魔法使いで、ひどくいじわるだったから。
アマラは言います。
「おまえが目を赤くなるまで泣きはらしたのは、私の息子が夫として気に入らなかったからだろう。
おまえの娘には、目が顔から飛び出るほど泣きそうな夫を世話してやろう」…。
ハンス・ペラル(1886-1871)は、ウィーン生まれのオーストリア人。
ハインリッヒ・レフラーの弟子となり、のちにミュンヘンでフランツ・フォン・シュトゥックに学びました。
そして、さまざまな風刺雑誌に挿絵を、また、数多くの似顔絵も描いています。
1911年、ダルムシュタットの芸術家村に招かれ、教授に任命されます。
1918年にフランクフルト・アム・マインに赴き、のちにウィーンに戻っています。
フリッツ・フォン・オスティーニ(1861-1927)は、ミュンヘン生まれ。
法律を学び、ミュンヘンの芸術アカデミーに通いました。
数年、将校として服役したのち、ジャーナリストになります。
同時代の画家たちに関する研究論文を多数書き、1896年、週刊誌「青年(ユーゲント)」の
共同設立者となり、のちにその主宰者になりました。
この雑誌名から「ユーゲント様式(シュテイール)という名称が生れたのです。
彼は短篇小説のほかに、子どものためにたくさん童話や絵本のテキストを書いています。
出版者ゲオルク・W・ディートリッヒは、1906年、ミュンヘンに児童図書出版社を創設。
芸術的な絵本の育成を志し、「ディートリッヒ・ミュンヘン芸術家絵本」シリーズを刊行しました。
彼は22歳になるハンス・ペラルから12枚の水彩画を受け取りました。
そして、オスティーニもまた、12枚の絵に夢中になりました。
「細密画のように繊細で、それでいて奔放な細線でぼかしをつけ、
ほとんど点描派的とも呼ぶべき技法で描かれている金を際立たせた12枚水彩画…。
驚くほど感覚を刺激し、まばゆいばかりであり、非現実的な魅力に満ちて物質的な重さから解放されています。
童話を芸術的に作るのに、これ以上の様式は望めないでしょう」と書いています。
本書の前書きにも、このように記しました。
「ひとりの画家がこの童話を考え出しました。これらのページにはさまれているのは、
文学を飾る絵の装飾ではありません。物語を創作したのは画家でした」と。
ペラルの童話世界の中では、豪華な衣装と建物のあるロココ時代が復活していますが、
道具類はすべてウィーン的であり、童話のフンイキは甘美で感傷的です。
ハインリッヒ・レフラーとグスタフ・クリムトに影響を受けているのは、確実でしょう。
出版社は12色刷りの石版画の表面に金を刷りこむという、コストのかかる印刷をおこないました。
その結果もっとも高価な絵本のひとつとなりましたが、ユーゲント様式のウィーン派の傑作のひとつともなりました。
本書によって、ハンス・ペラルは一躍、有名になりました。
画像は上下が切れています。
印刷 (株)便利堂 製本 文勇堂製本工業(株)
サイズ271mm×293mm
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解説書
*ドイツ国立図書館における児童図書収集の歴史 ハインツ・ヴェーゲハウプト
*作品解説
*子どもの本の文庫と研究機関 野村げん(さんずいに玄)
*テキスト・ガイド(すべての絵本に関する日本語訳。
ただし、最新世界地図、復活祭のうさぎ、子どもたち、フィッツェブッツェ、すばらしき歌の響き は抄訳です)
印刷…図書印刷(株) 製本…(有)東明製本
ハードカバー 206ページ サイズ 251mm×152mm
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付録 ミュンヘン一枚絵(5葉)ーーグリム童話から
◆長靴をはいた猫 モーリッツ・フォン・シュヴィント絵(1850年)
◆みつけ鳥 フランツ・ポッツィ絵(1857年)
◆ラプンツェル オットー・シュペクター絵(1857年)
◆つぐみひげの王さま フランツ・ポッツィ絵(1858年)
◆兄と妹 オットー・シュペクター絵(1858年)
一枚絵とは、古くからある庶民のための絵入り新聞のようなもの。
絵や文字が本を所有する一部の金持ちの占有物であった時代に、
絵のぎっしりつまったこの刷り物は、広い階層にわたって、本、
とくに子どもの本の下地を用意する役割を果たしました。
中でも有名なのが、1849年から発行された「ミュンヘンの一枚絵」です。
活字印刷が発明される前から、大きな紙の片面に木版画を刷ったものが出回っていました。
のちには、木版画の数が増えたり、絵がひと続きのものになったりしました。
文章はついていないか、ついていたとしても、わずかな量でした。
はじめは宗教的モチーフが主でしたが、のちに世俗的なテーマも取り上げられるようになります。
一枚絵は、新しい出来事を伝え、新聞のような役割も果していました。
字が読めない人にとっては、活字の代用であり、楽しみであり、情報源でもあったのです。
作者名はたいてい記されていません。壁にはられることもあり、人の手から手へと渡されていくこともありました。
16世紀には、子ども向けに作られた一枚絵がぽつぽつ出ていました。
18世紀末には子ども向けの一枚絵の生産が増え、19世紀半ばにはピークを過ぎました。
最初の「ミュンヘン一枚絵」が発行されたのは、1849年のことです。
年間24点、1849年から1898年の間に合計1200点が発行されました。
「ミュンヘン一枚絵」はまったく目新しいシリーズで、それまで売られていた庶民的な一枚絵とかなり異なっていました。
主として子どものために作られ、楽しく、かつためになることを主な目的としていました。
たいていは色つき。定価も安く、出版社はこう記しています。
「内容が豊かで、しかも値段が安く、芸術的価値が高い。
一枚絵はくめども尽きぬ楽しみの泉であり、教訓の泉です。…子どもたちに、これ以上のプレゼントはないでしょう」
「ミュンヘン一枚絵」の出版者 兼 編集者は、カスパール・ブラウンとフリードリヒ・シュナイダーです。
カスパル・ブラウン自身も画家で、すでに何冊か本に挿絵をつけており、木版技術の習得にパリに出かけていました。
1839年、木版製作部を設立し、1844年、フリードリヒ・シュナイダーとともにブラウン・ウント・シュナイダー出版社をスタート。
じき名高い画家たちに一枚絵を依頼するようになりました。
画家たちは、絵をじかに版木に描かなければなりませんでしたが、
カスパル・ブラウンは、絵が版木に手際よく刻まれるよう気を配りました。
ミュンヘン一枚絵に、昔話、伝説の一枚絵は81点あり、うち、グリムの昔話が30点以上を占めています。
このコレクションにおさめられた5つのグリムの昔話は、テキストはかなり短縮されてはいますが、
「ミュンヘン一枚絵」の高い芸術性をはっきり示しています。
◆「長ぐつをはいた猫」のモーリッツ・フォン・シュヴィント(1804-1871)は、ウィーン生まれ。
ロマン派の画家の中で昔話の描き手として知られています。
「灰かぶり」「七羽のカラス」などの連作で、名を知られるようになりました。
もっとも大きな成果をおさめたのは「ミュンヘン一枚絵」に描いた昔話の挿絵で、
「長ぐつをはいた猫」は20回以上も増刷されました。
ここでは、一枚絵の様式に熟達した彼の力が余すところなく発揮されました。
文章はなく、ストーリーの最初の部分は、絵の上部にある4コマで語られます。
話はさらに3つの主要場面で語られますが、ひとつひとつの画面が自由に描かれ、
絶え間なく行動している猫が個々の絵どうしをしっかり結びつけています。
はじめシュヴィントが描いた絵は白黒で、あとの版になってから着色されました。
この木版画は、ロマン派の絵の典型です。中世の城、きらびやかな宮殿、
森の風景が、ロマンチックな昔話のフンイキをかもし出しています。
若干の皮肉もこめられ、廷臣たちは多少、戯画化されています。
◆フランツ・フォン・ポッツィは、すでに1837年から1855年にかけて「白雪姫」
「ヘンゼルとグレーテル」「白雪とバラ紅」といった子どものための昔話の本に挿絵を描いています。
1850年代、「ミュンヘン一枚絵」のために、多くの昔話の絵を描きました。
「みつけ鳥」の一枚絵では、8つの木版画でストーリーが展開。
大きさがさまざまで、しかも、左右対称に配された画面に、ポッツィのユーモアが感じられます。
「つぐみひげの王さま」は、もっとも美しい一枚絵のひとつです。
テキストに囲まれ、上から下に並べられた幅広の絵で、物語が展開します。
装飾的に構成された2番めの絵は、ポッツィの自然に対するロマンチックで詩的な解釈を示しています。
木版はラフな感じで、飾り気のない人物像をイキイキ描いています。
ことに前面に描かれたラフな庶民像によって、市場の場面は活気に満ちています。
◆オットー・シュペクターは、北ドイツの昔話の画家の代表です。
すでに1843年、「長ぐつをはいた猫」にエッチングで挿絵をつけ、またほかの昔話にも絵を描いています。
彼の絵には北ドイツの風景のきびしさが感じられ、また、彼が好んで動物を描いていることが見てとれます。
「ミュンヘン一枚絵」に多くの昔話の挿絵を描いたとき、彼は物語を作る才能を存分に発揮しました。
判型が大きいので、物語を自由に作り上げることができました。
シュペクターは「ラプンツェル」で一枚絵のスペースを、ひとつのまとまった空間として用いました。
巧みな構図で、話全体をひとつの調和した絵の中に再現しました。
話はゴチック式の建物が並ぶ街並みで繰り広げられますが、建物の一部が文章を記した紙切れでおおわれていて、
大きな塔が絵の境界になっています。
一枚絵「兄と妹」の挿絵には、エピソードがあります。
シュペクターはすでにこの話の挿絵を、1847年、12枚の石版画をつけてロンドンで発行された英語版のために描いていました。
イギリスの石版師たちは、シュペクターの絵に手を加えてこぎれいにし、全部やわらかく、やさしい感じにしてしまいました。
シュペクターはこれが不満だったので、折を見て「ミュンヘン一枚絵」でもう一度この話に絵をつけることにしました。
1847年に描いた12枚の絵をそのまま生かして、まわりに装飾をこらしたりせず、そのまま横3列に並べました。
小さいサイズの中で木版画は輪郭の線が割にはっきりとあらわれていますが、趣きは少しも失われていません。
印刷…(株)便利堂 製本…(有)東明製本
サイズ445mm×336mm
ベルリン・コレクション その1
・その2
■バラ売り分■
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品切れ
ベルリン・コレクション 最新世界図絵 フルト・ベッヒャー、ヨハン・クシスティアン・シュネーマン編
マイセン ヴィーン 1843年 ほるぷ出版
3200円
B+ 小口シミ シミ以外はきれいです。函あり
82年、ほるぷ出版が挿絵、書体、装幀など、当時の雰囲気をできるだけ忠実に
再現した「復刻 世界の絵本館 ベルリン・コレクション」の1冊です。
今から160年以上前、1843年にウィーンで出版された、子ども向け、絵による百科事典です。
AからZまでの綴りで始まる単語に対応した絵が、1ページのなかにおさめられています。
読者が絵を見て、名称がわからなければ、その絵につけられた番号をたよりに5か国語
ーードイツ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語ーーの単語名と 味わい
深い解説を見て、たちどころに理解できるように工夫されています。
「J」の項目には「Japaner」(日本人)についての説明が。
「性格はたくましく、勤勉で器用ですが、よく酒びたりになりますし、
悪 がしこいところがあります」と書かれていて、びっくり。
その後、1869年にニュルンベルクで、コメニウスの百科事典ふうの絵本「世界図絵ーー
絵で示された目に見える世界」が出版されました。150枚の絵によって全世界を秩序だてて
紹介されていて、絵本、事典の先駆的な本とされています。
ベッヒャーとシュネーマンは、世界のあらゆる事物をアルファベット順に配列した最初の人物でした。
石版画家は不明ですが、挿絵がこの時代のものを細部にわたって表現しています。
その正確さにおいて、19世紀の文化史の情報源ともなった1冊です。
当時あまりにも高価な本だったので、出版側はリスクを少しでも回避すべく
オーストリアにも共同出版者を求めたうえ、11回にわたる分冊で出版。
彩色されたものと、やや値段の安い無彩色のいずれかを選んで買える仕組みでした。
彩色されたカラー。ディテールまで細かく細かく描かれていて、どれほど時間をかけて
手がけた絵だろうかと感嘆いたします。細かい絵がぎっちり描かれていて、その1点1点、物語を感じさせます。
絵本の原点はこんなところにあったのかもしれません。
ハードカバー 表紙は布貼り。サイズ 天地26センチ×左右17.1センチ
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品切れ
ベルリン・コレクション 子どもの歌の泉 ドイツ古謡 フェードル・フリンツァー絵
ベルリン 1883年 ほるぷ出版
3500円
B+ 函あり
82年、ほるぷ出版が挿絵、書体、装幀など、当時の雰囲気をできるだけ忠実に
再現した「復刻 世界の絵本館 ベルリン・コレクション」の1冊です。
今から120年以上前の絵本を復刻させたもの。
ドイツに伝わる古いわらべ歌が24曲入っています。
歌の内容を絵で表現し、さらに絵と調和するように、絵の中に歌詞が手描きで添えられています。
もともと、これらの挿絵は「絵入り婦人新聞」のために描かれたもの。
1881年、この新聞の付録として1枚ずつの絵の形で掲載されました。
それをもとに1冊の絵本をこしらえたのが「子どもの歌の泉」です。
出版者は慎重な人物で、初版は1000部のみでした。
しかし、すぐ売り切れ、さらに第2版、第3版もすぐ売り切れて、同年のうちに第5版まで出版されました。
フェードル・フリンツァー(1832-1911)は、フォークトラントのライヒェンバッハ生まれ。
1849年からドレスデン芸術アカデミーで学び、ルートヴィヒ・リヒターらの指導も受けます。
学業の合間に家庭教師をし、子どもの本の挿絵を描いて、生計を立てていました。
1859年、ケムニッツで絵の教師に、1873年、ライプツィヒで市の絵画指導官になって、絵画教育の改革に力を尽くしました。
フリンツァーは子どもの本60冊ほどの挿絵を描き、そのうち数冊には文も書いています。
初期の挿絵には、彼の師であるルートヴィヒ・リヒターの影響が見られます。
しかし、まもなくそこから離れて、とくに動物の絵に熱心に取り組みました。
ねこ好きで「子猫ちゃんの悲しみと喜び」「牝猫ムルの日記」なども描き、「猫のラファエロ」とも呼ばれました。
フランスの画家グランヴィルの影響を受け、後期作品では動物たちに服を着せたり、
動物の姿を借りて人間の行動をなぞったりしています。
しかし、本書では、動物はあくまでもその動物らしく、やさしくユーモアをこめて描かれています。
少年少女もよいのですが、動物の絵柄がイキイキしています。ねこが毛づくろいしている絵も見られます。
ねこの絵を描いた子どもが、その絵を嬉々としてねこに見せている絵柄がほほえましい。
イラストはすべてカラー。当時は手彩色でした。19世紀末からの絵本の大量生産と色彩印刷は、
フィンツァーの後期の本に影響を及ぼし、彼の絵本はかえって深みを失ったといわれます。
ハードカバー サイズ19.4センチ×19.5センチ
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品切れ
ベルリン・コレクション 子どもたち アナトール・フランス作 M・ブーテ・ド・モンヴェル絵
パリ 1887年 ほるぷ出版
3800円
B+ 表紙少キズ 函接着面はがれ
82年、ほるぷ出版が挿絵、書体、装幀など、当時の雰囲気をできるだけ忠実に
再現した「復刻 世界の絵本館 ベルリン・コレクション」の1冊です。
今から120年近く前の絵本です。 アナトール・フランスの有名な作品「我々の子供たち」(Nos Enfants)に、
ケイト・グリーナウェイの影響を受けたブーテ・ド・モンヴェルがかわいらしい絵を描いた本です。
「ファンション」「仮装舞踏会」「学校」「マリ」「牧畜の笛」
「ロジェの馬小屋」「勇気」「カトリーヌのお客日」「海の子」の9編。
フランスの絵本は長い伝統を持ち、他国にも影響を及ぼしました。
ドラクロワ、ポール・ガヴァルニ、グランヴィル、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・ドレら
重要なフランスの画家たちは、デフォー、スウィフト、セルバンテスと いう世界文学の作家たち、
また、ペロー、グリム、ハウフ、アンデルセンらの童話・昔話の挿絵を描いています。
これらはのちに子どものための本となっていきました。しかし、もともとは子どものための本でなく、
作り手たちも子どものための本を作ったわけではありませんでした。
19世紀末の4半世紀、安価でけばけばしい色をした絵本や豪華本には色刷りが多用され、
若いフランスの芸術家たちが子どもの本に取り組むようになりました。
モーリス・ブーテ・ド・モンヴェル(1851-1913)は、オルレアン生まれ。
70年代に東洋の宗教的絵画によって成功をおさめ、肖像画、歴史画も描きました。
また、童謡、寓話、絵本のために描いた絵によって世界的に有名になり、
彼の絵本はドイツ、スウェーデン、アメリカでも出版されました。
モンヴェルは、絵の解釈、構図、色彩など、イギリスの女流画家ケイト・グリーナウェイに強く影響を受けました。
モンヴェルの描く子どもたちは、素朴に簡潔な線で描かれています。
多くはただ輪郭が描かれているだけで、淡く彩色してあり、ひじょうに明るく澄んだ印象を与えます。
グリーナウェイが絵本の中で子どもたちに着せた想像豊かな衣裳が子どもたちの世界で
そのまま流行となったのに対して、モンヴェルは自分の子ども時代の服をそのまま描いています。
アナトール・フランス(1844-1924)は、書籍商の息子として生まれ、編集顧問および図書館監督官になりました。
フランスの重要な小説家および文芸批評家のひとりであり、1921年にノーベル賞を受賞しています。
イラストはカラーとモノクロと両方です。少女のキャラクターがとても愛らしく、
細い線がなんとも言えず、なんだかぐっときます。ねこや犬など小動物を好んで描いています。
ハードカバー サイズ天地28.8センチ×左右21.1センチ
ベルリン・コレクション その1
・その2
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